浅井&朝倉滅亡のウラで…織田信長と六角承禎の鯰江城の戦い
天正元年(1573年)9月4日、織田信長の命を受けた柴田勝家が六角義治の拠る鯰江城を攻めました。
・・・・・・・
室町政権下で近江(おうみ=滋賀県)守護(しゅご=県知事)を任されていた六角(ろっかく)氏は、応仁の乱(おうにんのらん)後に後継者争いをかかえながらも(11月12日参照>>)単独で将軍に抵抗できるほどの(12月13日参照>>)力を持ち合わせていましたが、
永禄六年(1563年)の観音寺騒動(かんのんじそうどう)(10月7日参照>>)にて少々勢い減(7月29日参照>>)・・・それでも、同族の京極(きょうごく)家とともに近江の名門としてのプライドを維持し続けていたわけです。
しかし、そこに登場したのが、あの織田信長(おだのぶなが)。。。
永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき=室町幕府15代将軍)を奉じて上洛する信長(8月3日参照>>)の行く手を六角承禎(ろっかくじょうてい=義賢)が阻んだ事から、当然、織田軍との戦いが発生する事に。。。
しかし織田軍の猛攻撃に配下の箕作城(みつくりじょう=同東近江市五個荘)が落城した事を受けて、六角承禎は本拠の観音寺城 (かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)を捨て、息子の六角義治(よしはる)ともども夜陰に紛れて甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)へと落ちていったのでした(9月12日参照>>)。
そんな六角父子を迎え入れ、ともに信長に対抗しようとしたのが鯰江城(なまずえじょう=滋賀県東近江市)の鯰江貞景(なまずえさだかげ)でした。
その後の六角承禎は、ここ鯰江の支援を受けながら、やはり信長の上洛で拠点を失った三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・岩成友通)(1月5日参照>>)と協調し、単発的なゲリラ戦を展開しながら信長に対抗していく事になります。
あの「信長大ピンチの巻」となった元亀元年(1570年)の金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)では、朝倉義景(あさくらよしかげ)と浅井長政(あざいながまさ)から必死のパッチで逃げる信長の逃げ道を阻むべく、周辺の一揆を扇動しつつ(5月6日参照>>)、織田傘下の長光寺城(ちょうこうじじょう=滋賀県近江八幡市)を守る柴田勝家(しばたかついえ)を追い詰めたりもしています(6月4日参照>>)。
とは言え、ご存知のように、ここで信長が倒れる事は無く、態勢を立て直した2ヶ月後の姉川(あねがわ)の戦いで信長は朝井&朝倉に勝利しています(6月28日参照>>)。
さらに、
信長と浅井&朝倉の戦い↓が続く中、
●宇佐山城の戦い>>
●堅田の戦い>>
強気の信長は敵の残党を匿う比叡山を焼き討ち(9月12日参照>>)。。。
そんな信長が石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪市)(9月14日参照>>)や武田信玄(たけだしんげん)まで敵に回しつつ(12月23日参照>>)戦いを展開していた元亀四年(1573年=8月に天正に改元)1月、
これまで何かとギクシャクしていた(1月23日参照>>)足利義昭が、とうとう信長に対し、あからさまに反旗をひるがえします(2月20日参照>>)。
しかし即座に岐阜を出て上洛し、義昭の拠る二条御所(にじょうごしょ=京都市中京区)(2月2日参照>>)を囲んだ信長に義昭はなす術なく・・・しかも、信長が4月4日に上京を焼き討ち(4月4日参照>>)した事に驚いた時の正親町天皇(おおぎまちてんのう=106代)によって両者の和解が進められ、
さすがの信長&義昭も天子様の仲介には逆らえず、ほどなく両者は和睦しました。
そんな両者の和睦の状況を知ってか知らずか?
いや、知っててももう後へは退けない六角承禎は、この4月の初め頃から観音寺城から逃れた残党たちを、鯰江城に集めだしていたのです。
これを知った信長は、和睦が成って京都を発った4月7日に守山(もりやま=滋賀県守山市)へと移動・・・さらに翌8日に百済寺(ひゃくさいじ=滋賀県東近江市)に入って、ここを宿所として2~3日滞在している間に、柴田勝家、佐久間信盛(さくまのぶもり)、丹羽長秀(にわながひで)、蒲生氏郷(がもううじさと)らに命じて鯰江城を攻撃させます。
しかし堅固な鯰江城はなかなか落ちないと見て、すぐさま今度は周辺に砦を築いて長期に渡る包囲作戦に切り替えます。
…と、ここで、実は百済寺の衆徒がすでに地元一揆と通じていて、密かに信長の命を狙っている事が判明・・・これまた、すぐに行動を起こす信長は4月11日に百済寺に火を放ち、堂塔伽藍が建ち並ぶ一山ひっくるめて焼失させた後に、自身は岐阜へと帰ったのでした。
もちろん、信長が帰っても鯰江城の包囲が解かれる事は無く、命じられた将兵たちは攻め続けていたわけですが、そこはさすがの六角父子・・・籠城しながらも度々のゲリラ戦を展開し、抵抗を続けます。
一方の信長・・・かねてより琵琶湖の水運と足利義昭へのけん制との意味を込めて建造していた百挺櫓の大船が、この7月3日に完成(7月3日参照>>)。。。
…と、これまた、その大船の存在を知ってか知らずか(知らんやろなぁ~)、その2日後の7月5日に足利義昭が再びの反旗を翻すのです。
すぐさま準備を整え、できたばかりの大船によって琵琶湖を渡り、またたく間に京都に到着した信長は、7月18日に宇治川を渡り、義昭相手のあの槇島城(まきしまじょう)の戦いへ・・・(7月18日参照>>)
こうして義昭を抑え込んだ信長は、半月後の8月6日に越前征伐に出陣・・・8月14日の刀禰(根)坂の戦い(8月14日参照>>)を経て、8月20日には一乗谷の戦い(8月20日参照>>)で朝倉を滅亡させ、1週間後の8月28日は小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市)を陥落させて浅井も滅亡させてしまいます(8月28日参照>>)。
かくして天正元年(1573年)9月4日、信長は浅井滅亡の勢いそのままに佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)に入って、すぐさま柴田勝家に命じて鯰江城へ総攻撃をかけさせるのです。
この時、未だ籠城継続の色濃い城内の守りを一手に引き受けていたのは六角義治でしたが、この総攻撃によって浅井&朝倉の滅亡を知る事に・・・
もちろん、鯰江城を守る六角義治クンも、この籠城戦が浅井&朝倉ありきの合戦である事は重々ご承知・・・信長を囲んでこそ功を奏するというもので、単独では、とてもじゃないが勝ち目はない。。。
そそくさと降伏を表明し、鯰江城を開け渡したのでした。
翌年も六角義治は、石部城(いしべじょう=滋賀県湖南市)にて抵抗の姿勢をみせますが、この石部城も翌年に落とされて信楽(しがらき=滋賀県甲賀市)へ逃走・・・
とは言え、
後に、信長亡き後も豊臣秀吉(とよとみひでよし)の御伽衆(お伽衆=話相手の側近)として六角承禎&義治父子ともども登場し、江戸幕府成立後も六角義治の子孫は加賀藩に仕え、その弟の血筋は旗本に加えられていますので、誇り高きその血脈は守られる事になりますが、
残念ながら、
室町から戦国にかけて将軍をも脅かす隆盛を誇った六角氏は、この鯰江城の敗北で、浅井&朝倉とともに息の根止められる事になるのです。
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コメント
六角承禎が降伏に応じたのは、元の家臣である蒲生氏郷(信長の娘婿でもある)あたりが説得させたか?
先日、吉乃さんの菩提寺があった愛知県江南市に織田信長と吉乃さん、2人の間に生まれた3人のこどもの銅像ができました。廃寺が決まった際に「寺院の跡地に記念碑か銅像を作ってほしい」と思っていましたが、最寄駅のそばの銅像設置にこぎつけてよかったです。
投稿: えびすこ | 2024年9月 8日 (日) 09時04分
えびすこさん、こんばんは~
名刹の保存には維持費がかかりますが、なんとか保存される方向で良かったと思います
投稿: 茶々 | 2024年9月10日 (火) 03時30分