宇都宮尚綱VS那須高資~喜連川五月女坂の戦い
天文十八年(1549年)9月17日、那須高資と戦った喜連川五月女坂の戦いで宇都宮尚綱が討死しました。
・・・・・・・
足利将軍家の分家として代々関東一円を治めて来た鎌倉公方(かまくらくぼう)も(9月19日参照>>)、第4代の足利持氏(あしかがもちうじ)が中央=将軍家に反発した事で時の将軍=足利義教(よしのり=第6代将軍)によって廃されてしまいますが(2月10日参照>>)、
持氏によって引き起こされた関東の混乱はおさまらず・・・そんな中で将軍=義教の死を受けて、やむなく幕府は持氏の遺児である足利成氏(しげうじ)を鎌倉公方に据えますが、あまりの混乱ぶりに成氏は鎌倉から追い出されて下総古河(こが=茨城県古河市)を本拠地とする事となり、ここからは古河公方(こがくぼう)と呼ばれる事に。。。
「どないかせなアカン」
と思った時の将軍=足利義政(よしまさ=8代将軍)は弟の足利政知(まさとも)を関東に派遣しますが、正知もまた鎌倉に入れず、伊豆堀越(ほりごえ=静岡県伊豆の国市)に留まって堀越公方(ほりこしくぼう・ほりごえくぼう)と呼ばれるようになります。
しかし、その堀越公方は息子の代の延徳三年(1491年)(もしくは明応二年=1493年)に駿河(するが=静岡県)守護の今川の外戚である北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)に倒され(10月11日参照>>)、
古河公方の方も成氏の死後(9月30日参照>>)、その孫同士が永正十五年(1518年)にモメで古河公方継いだ足利高基(たかもと)と袂を分かつ弟の足利義明(よしあき)の小弓公方(おゆみくぼう)に分かれる始末。。。
関東公方のそんなゴタゴタは、当然、その地に生きる武将たちにも様々に影響するわけで・・・
そんな中、
平安の昔から宇都宮(うつのみや=栃木県の中部地域)一帯を領地として来た宇都宮氏の20代当主=宇都宮尚綱(うつのみやひさつな)が、家臣の横暴によって幽閉された父に代わって家督を継ぎ、その家臣を討って家中を掌握したのは天文八年(1539年)の頃。。。
一方、
コチラも後継者争いを抱えていた下野(しもつけ=栃木県)の那須郡(なすぐん=栃木県の北東地域)に根を張る那須氏(「扇の的」>>の那須与一の子孫とも)の那須高資(なすたかすけ)も、争っていた異母弟が身を隠した天文十三年(1544年)頃に正式に第19代当主に就任します。
こうして
5年前後して国内を収めた両者ですが、国内が穏やかになると
「少しでも我が領地を増やしたい」
と思うのが戦国武将の常。。。
かくして天文十八年(1549年)9月17日・・・といきたいところですが、
『那須記』などによれば、
この日の辰の刻(7時~9時)に2千余騎を率いて喜連川(きつれがわ)の五月女坂(そうとめざか=栃木県さくら市早乙女)に陣取った宇都宮尚綱が、
那須高資の300余騎に矢合(やあわせ=開戦の合図の矢を射る事)をし・・・
と、宇都宮尚綱が那須高資を倒すべくやって来たとの内容ですし、プラスそれは4代古河公方の足利晴氏(はるうじ)の許可を得ての討伐であったという話であります。
しかし他方では、
かねてより宇都宮領への侵攻を模索していた那須高資が、かつての宇都宮家内でのお家騒動がらみで亡くなった家臣の芳賀高経(はがたかつね)の遺児=芳賀高照(たかてる)を味方に引き入れる事に成功し、
「高照父の仇を討つ」
という大義名分を掲げて宇都宮領に侵攻した…という話もあります。
なので、どちらが先に侵攻を開始したか?という点は曖昧なのですが、
とりあえずは、
この9月27日に両軍が五月女坂でぶつかった事は確かなようです。
喜連川五月女坂の戦い・要図↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>
初めは数が勝る宇都宮勢が圧倒・・・敵が小勢と見切った宇都宮尚綱が自軍を分けて三方から那須勢を攻め立てて八方に蹴散らし、那須軍はやむなく撤退を開始します。
しかし、これは宇都宮軍を誘い出す那須の作戦・・・
この間に伏兵が宇都宮軍の後方へと回り、退く那須軍を追い込もうとする宇都宮軍に攻撃を仕掛けると、混乱する宇都宮軍は乱れに乱れ、多功長朝(たこうながとも)をはじめとする名のある武将が複数討たれてしまいます。
この乱れを鎮めるため、宇都宮尚綱は高所に駆け上がって采配を振るって統率を取ろうとしますが、その様子を後方から見て取ったのが那須方の鮎ヶ瀬実光(あゆがせさねみつ)でした。
すかさず放った実光の矢が宇都宮尚綱の胸板を貫いたのです。
もはや当主を失った宇都宮軍の乱れが戻る事は無く・・・
こうして喜連川五月女坂の戦い(きつれがわそうとめざかのたたかい)は、あっけなく幕を閉じたのでした。
当主の死での混乱に乗じて塩谷郡(しおやぐん=栃木県)まで領地の拡大に成功した那須高資でしたが、もちろんこれは宇都宮の諸士の恨みを買う事でもあり、
結局、この2年後、宇都宮の芳賀高定(たかさだ=益子勝宗の三男で芳賀を継ぐ)の計略にかかった那須家臣=千本資俊(せんぼんすけとし)によって高資は騙し討ちされてしまうのでした(12月8日の前半部分参照>>)。
一方、この戦いで当主を失った宇都宮・・・残ったのは、わずか5歳の嫡男=宇都宮広綱(ひろつな)でしたが、当然、そこには家内を牛耳ろうとする古株たちの闘争劇が・・・
結局、このドサクサに宿老の壬生綱房(みぶつなふさ)に、本拠の宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市)を乗っ取られ、幼き当主は多気城(たげじょう=栃木県宇都宮市)に避難。。。
しかしご安心を・・・このあと、宇都宮広綱も若くして亡くなり、わずか9歳の孫=宇都宮国綱(くにつな)が宇都宮氏を継ぐ事になるのですが、この国綱が見事宇都宮を守り抜く事になります。
なので、
そのお話は12月15日【宇都宮国綱が守り切った宇都宮城~長きに渡る北条との戦い】>>でどうぞm(_ _)m
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