御館の乱~加勢する北条氏政と武田勝頼
天正六年(1578年)9月12日、謙信の後継者争いの御館の乱で、北条氏政が上杉景虎救援のため越後に侵入し坂戸城を攻めました。
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御館の乱(おたてのらん)は、上杉謙信(うえすぎけんしん)亡き後に、その養子同士で後継者の座を争った戦いですが、これに参戦したのが相模(さがみ=神奈川県)の北条と甲斐(かい=山梨県)の武田・・・
てな事で、本日は、この御館の乱における両者の動きを中心に。。。
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…で、そもそもなぜに上杉の後継者争いに北条と武田が・・・という所からの経緯をお話しさせていただきますと、
実子のいなかった上杉謙信には幾人かの養子や養女がいますが、その死を受けて後継者候補となったのは2人…(他は謙信が傘下に入れた他家を継いでいるので…)
一人目は、元亀元年(1570年)に上杉と北条との同盟の証として養子に入った北条氏康(ほうじょううじやす)の七男・・・この人は、かつては武田との同盟の証として武田領にいたものの同盟破棄となって戻って来て北条幻庵(げんあん=氏康の叔父)の養子となっていたところを、
今度は上杉と同盟を結ぶ事になり、上記の元亀元年(1570年)に初対面して謙信が大いに気に入り、そのまま、自らの姪っ子(姉の娘)と結婚させる前提で養子として連れ帰り上杉景虎(かげとら)と名乗らせました。(2010年版:御館の乱参照>>)
もう一人は、謙信の姉の子=つまり甥っ子になるわけですが、コチラが天正三年(1575年)に上杉氏を名乗らせる事になる上杉景勝(かげかつ)で(1月11日参照>>)、その奥さんが武田の姫というワケ。。。(実際に嫁ぐのは天正七年(1579年))
…で、ご存知のように天正六年(1578年)3月9日(11日とも)に春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市春日)の自宅トイレにて脳卒中で倒れた上杉謙信。。。
この事をいち早く知った景勝は、すぐさま春日山城の本丸とともに武器庫や金蔵を占拠・・・この時、二の丸にいた景虎は、景勝らが囲ってしまっているため、謙信に会わせてもらう事もできなかったと言います。
やがて13日に謙信が亡くなると、その2日後の15日に景勝は謙信の遺言と称して、自身が謙信の後継者である事を宣言し、景虎のいた二の丸を攻撃して来ます。
やむなく景虎は、妻子を連れて御館(おたて=同上越市五智)へと移動し、以後、ここに立て籠もって戦います。
この御館というは、かつて関東管領(かんとうかんれい=関東支配の補佐)を務めていた上杉憲政(のりまさ)の住まうところ・・・
ご存知のように謙信は、もともとは越後(えちご=新潟県)の守護代(しゅごだい=副知事)だった長尾(ながお)家の人で長尾景虎(ながおっかげとら)と名乗っていましたが、
関東を追われた上杉憲政を保護した(4月20日参照>>)事をキッカケに、永禄四年(1561年)にその憲政から関東管領職と上杉の名跡を譲られて、上杉政虎(まさとら)→上杉輝虎(てるとら)→不識庵謙信(ふしきあんけんしん)と改名して来たわけで、
つまり、春日山城を占拠された景虎にとって、対抗できるような場所(聖地)はこの御館しかないわけですが、どうやら上杉憲政も彼を受け入れて味方になってくれたようで。。。
以後、越後の武将たちも、いずれかに属して各地で戦いを展開する事になります。
そんなこんなの5月29日。。。景虎の兄である北条氏政(うじまさ=氏康の次男)は、妹(桂林院:参照>>)の嫁ぎ先である武田勝頼(たけだかつより)に
「景虎に味方してやって!」
と救援要請します。
北条は、奥さんの実家だし、何たって景虎は、その奥さんの兄ですから・・・その救援要請を快諾した勝頼は、一門の武田信豊(のぶとよ)に約2万の軍勢を預けて信濃(しなの=長野県)と越後の国境目指して進軍させました。
ところが、武田を敵に回したくない景勝は、この一報を聞いて、すぐさま家臣の長坂虎房(ながさかとらふさ)から跡部勝資(あとべかつすけ)を通じて武田方に黄金一万両を贈るという懐柔作戦に出ます。
そうこうしているうちに、6月に入っても北条氏政自身が景虎の救援に出陣して来ない事に疑念を持った武田勝頼は、6月7日に景勝の要請を受け入れて和睦して、
その足で越後に入り6月29日には木田(きだ=新潟県上越市木田)に進出して景勝と景虎の両方に和議を進めます。
しかし、その間にも・・・
6月9日には、その木田で一戦交える一方で、景勝方の上野九兵衛尉(うえの きゅうべえのじょう)が柿崎憲家(かきざきのりいえ)とともに猿毛城 (さるげじょう=新潟県上越市柿崎区)を陥落させるなど、景勝と景虎の戦いは、場所を変え将を変え、各地で展開されていたのです。
一旦は武田勝頼の仲介で和議が結ばれるか?に見えたものの、結局、本領の甲斐の方で徳川家康(とくがわいえやす)の動きが活発化し始めた(9月19日参照>>)ため勝頼は帰国する事になり、そうなると再び景虎VS景勝が再燃。。。
やがて9月に入ると、景虎を救援すべく景虎の兄たち=北条氏照(うじてる=氏康三男)・氏邦(うじくに=氏康五男)兄弟が越後に侵入し、樺沢城(かばのさわじょう=新潟県南魚沼市)を根拠地に、景勝方の拠点である坂戸城(さかどじょう=新潟県南魚沼市)をはじめとする周辺の諸城への攻撃を開始します。
9月2日には景虎に味方する上杉家臣の北条高広(きたじょうたかひろ)・景広(かげひろ)父子が厩橋城(うまやばしじょう=群馬県前橋市:後の前橋城)から駆け付けて御館に入り、景虎軍の一翼として各地を転戦します。
かくして、
天正六年(1578年)9月12日に、いよいよ北条氏政自身も越後に侵入し、坂戸城を攻めます・・・が、これが…景勝側も良く防戦してなかなか落ちない。。。
そんな中、9月27日には武田勝頼の軍が妻有庄(つまりそう=新潟県十日町市)に進出し坂戸城に入城しようともしますが、
一方で、ここらあたりから北条の出張組にゴタゴタ感が見え始めるのです。
なんせ北条は、現時点でも下野(しもつけ=栃木県と群馬県の一部)あたりで佐竹(さたけ)や宇都宮(うつのみや)などと絶賛対陣中。。。主要人物が出張しっぱなしというわけにはいかないわけで、、、
そもそも最初の頃に武田勝頼に声かけたのも、越後に回せる人手が不足していたせいなんですから。。。
そのため、北条氏照は河田重親(かわだしげちか)らに樺沢城を任せて帰国・・・北条景広も自身の北条城(きたじょうじょう=新潟県柏崎市)へ武器&兵糧補充のために、一旦帰ろうとします。
しかし、これを察知した景勝方の佐野清左衛門尉 (さのせいざえもんのじょう)らがすかさず要撃し、北条景広は北条城に帰れなくなってしまいます。
こうして景虎救援の北条は主力部隊が帰国してしまい、一方の武田も勝頼が帰国した後はあっちの戦場こっちの戦場と移動するものの、大きな成果を挙げるには至りませんでしたが、
それでも、合戦の形勢は確実に景勝側へと逆転されてしまいます。
年が明けた天正七年(1579年)の2月3日には、景勝自身が大軍を率いて府中に入り、御館を攻撃・・・
北条城に帰れないでいたかの北条景広はこの日の戦いで討死し、主力が戻った後も残っていた北条の越冬軍も討死するか関東に逃げ帰るかで、もはやほとんどいなくなってしまったのです。
そして、この形勢は逆転される事無く・・・
ご存知のように天正七年(1579年)3月17日の景勝の総攻撃にて御館は落城し、1週間後の3月24日に景虎が自刃して、御館の乱と呼ばれる戦いは終焉を迎える事になります。
事、後継者争いに関しては、このあとの事を知ってる現代の者としては、
(結局は衰退していくイメージしかないので(ToT))
「どうにかならんのかなぁ~」
と思いますが、どうにもならん物なんでしょうねぇ~
と、まぁ、
本日は、北条と武田の動きを中心に書かせていただきましたが、御館の乱については、ブログでは未だ全体像しか書いてないので景勝と景虎の個々の戦いの細かな事は、またいずれかの日付で書かせていただきたいと思っておりますm(_ _)m
★関連リンク
【謙信の死後・御館の乱】(2007年版)>>
【景虎VS景勝~御館・落城】(2010年版)>>
そのスキに動く信長↓
【織田VS上杉の越越中争奪戦~月岡野の戦い】
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