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2024年10月30日 (水)

幕府の攘夷政策に反対~道半ばで散った高野長英

 

嘉永三年〈1850年)10月30日、幕末の医師で蘭学者でもあった高野長英が、脱獄の果ての潜伏先にて捕り方に囲まれて自殺しました。

・・・・・・・・

水沢城(みずさわじょう=岩手県奥州市水沢)を本拠とした 水沢伊達家(みずさわだてけ=伊達一門)の家臣であった後藤実慶(ごとうさねよし)と、医者であった高野玄斎(たかのげんさい)の妹との間に後藤家の三男として生まれた高野長英(たかのちょうえい)でしたが、

9歳の時に父が亡くなってしまい、また、母が後妻だった事で、前妻の長男が後藤家を継ぐ事となったため、長英は母の兄である高野玄斎の養子となって高野家を継ぐ事となり、それからは母の実家で暮らす事になったのです。

義父となった玄斎は、あの『解体新書(かいたいしんしょ)(3月4日参照>>)でお馴染みの杉田玄白(すぎたげんぱく)から医学を学んだ蘭方医(らんぽうい=西洋医学の医師)。。。しかもその父(つまり祖父)高野元端(げんたん)もかつては漢方医(かんぽうい=東洋医学の医師)でしたから、

Takanotyouei700as 長英は自然と医学に興味を持ち、
「自分も祖父や伯父のような医者になりたい!」
と思うようになるのです。

そんな中、17歳になった 長英は、かの後藤家を継いだ異母兄=後藤堪斎(たんざい)が、藩医(はんい=藩御用達の医者)の家系である板野(いたの)を継いだ事で、
「医学を勉強するために江戸に出る」
という話を耳にします。

「そんなん、俺も行きたいやん!」
もう、居ても立ってもいられません。

しかし、当然の事ながら、江戸への留学には多額の費用が発生します。

兄の堪斎の留学は、言わば藩の命による留学なので、その費用のほとんどは藩から出ますが、長英はそうは行きません。

なので養父の玄斎をはじめ、高野家の皆々は猛反対・・・しかし、それらを押し切って長英は兄について行くのです。

一説には、長英は無尽講(むじんこう=今で言うところのクラウドファンディングみたいな?)の組合に参加して、組合から借金して金を作ったという話も・・・

こうして、見切り発車的な雰囲気は醸しつつも、なんかと江戸へと出た長英は、杉田玄白の養子である杉田伯元(はくげん)に弟子入りします。

ここでは、はなからお金が無いので、本当は寝食付きの内弟子にしてもらうつもりで杉田伯元の門をたたいた長英でしたが、

受け入れてもらえず、やむなくツテを頼って知り合いの薬問屋に住まわせてもらい、そこから杉田伯元のもとへ勉学に通う・・・という状況だったため、長英は年中金欠。。。

マッサージなどのアルバイトをしながら、何とか食いつないでいたのだとか。。。

やがて吉田長淑(よしだちょうしゅく)という蘭学者に弟子入りした長英は、文政五年(1822年)、師匠から「長英」の名をもらいます。

ここまで「長英」「長英」て呼んでましたが、すみませんm(_ _)m
ややこしいので、最初から有名な名で呼ばせていただいてましたが、実は、長英と名乗るのはここからなんですが、

要は、
蘭学の知識がシッカリ身についている事、
蘭方医としてやっていける事を先生から認められ、名前をいただいたというわけです。

えぇ?もう?はやっ
って感じですね~

だって、この時点で江戸へ出てまだ2年しか経ってないんですよ。

まぁ、おそらくは地元にて祖父や伯父からある程度教わっていた事もあるのでしょうが、

それでも、たった2年のバイトしながらの塾通いで見事に先生に認めてもらえるとは!!
長英の才能がいかにスゴかったかの証ですね~さすが!

このあと、借金返済のために江戸にて町医者を開業しますが、その頃、ちょうど兄の堪斎が病を得てしまい、長英は看病しながら営業し、さらに医学の勉強もし・・・という苦労の連続でした。

それにもめげず頑張りますが、残念ながら兄は他界・・・経営も火の車で借金返済もままならず。。。

そんなこんなの文政八年(1825年)、長英は長崎オランダ商館にやってきたシーボルトの噂を耳にします。

「最先端の西洋医学に精通したスゴ腕の医師が鳴滝塾(なるたきじゅく)という塾を開いていて、皆が全国から教えを請いに集まっている」
と・・・

またもや、居ても立ってもいられない長英ですが、
これまた、やっぱりお金が無い・・・

悩んでいたところに吉田塾の同僚が、
「机や紙の上での勉強だけではアカンのちゃうか?」
と背中を押してくれ、

またもや見切り発車で長崎へ・・・
「えぇい!いてまえ!」
長英、22歳の時でした。

しかし、さすがは長英・・・ここでも、その才能はすぐに発揮されます。

Siebold600acc すでにオランダ語がペラペラな長英は、通訳と仲良くなりシーボルトの弟子になる事に成功・・・しかも、その成績は塾でもトップクラスで、得意のオランダ語で書いた論文がシーボルトの称賛を得て、1年後にはシーボルトからドクトル(今で言う医学博士?)の称号も与えられました。

しかし、そんな中で起こったのが、あの文政十一年(1828年)のシーボルト事件(9月25日参照>>)です。

帰国しようとしていたシーボルトの荷物の中に、伊能忠敬(いのうただたか)地図(9月4日参照>>)など、いわゆる機密文書が入っていた事でシーボルトは国外退去&再入国禁止の処分が下され、関係した弟子たちも次々と逮捕されました(2月16日参照>>)

いち早く事件を察知して長崎から出て身を隠した事で、なんとか難を逃れた長英・・・しかし、そこに養父の玄斎の死の知らせが届きます。

「故郷に戻って高野家を継いでほしい」
という一族の願いを蹴って相続放棄した長英は、九州から広島大坂京都と各地を点々としながら、やがて江戸へと舞い戻り、麹町(こうじまち=東京都千代田区)にて開業し、大觀堂という塾も開きました。

また、その傍らで日本最初の生理学書である『医原枢要(いげんすうよう)を発行しています。

やがて、近所に住んでいた田原藩(たはらはん=現在の渥美半島付近)の重役であった渡辺崋山(わたなべかざん)と知り合い、彼の依頼で蘭学書(らんがくしょ=オランダ語の本)の翻訳の仕事もこなすように・・・

また天保四年(1833年)頃から始まった天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)では『二物考(にぶつこう)という庶民の栄養不足解消法(ジャガイモの栽培など)を記した書籍を発行し、飢饉からの脱出にも尽力しました。

ところが、
そんな大飢饉がようやく落ち着くかに見えた天保八年(1837年)、モリソン号事件が起こります。

このモリソン号事件とは、
嵐に遭って遭難して外国船に救助された日本人の船乗り7名を、日本に送り届けたついでに通商しようと考えたアメリカ商人が、

このモリソン号という船で日本近海(浦賀と鹿児島)に現れたものの、鎖国中の日本では「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい=外国船を追い払う)が出ていた事、また、この船をイギリス軍艦と勘違いした事もあって、つい砲撃しちゃった…という事件。。。

まぁ、この頃の日本側の大砲が大した事無かったおかげ?でモリソン号はそのまま退去して、無事マカオに帰還して大事には至らず

さらに後に、モリソン号渡来のいきさつも判明して、事件自体は治まったのですが、

ここで盛り上がったのが、外国船に対する日本の姿勢=幕府の「異国船打払令」についての議論です。

そして翌天保九年(1838年)、長英は『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)を著し、その中で異国船を打ち払う事がいかに無謀な事であるかを論じて幕政を批判したのです。

内容は、あくまで「打ち払う」事を「無謀である」と主張しているだけで、この後の幕末に燃え上がる「攘夷だ!」「開国だ!」てな激しい物では決してなく、

「いきなり攻撃なんてせずに平和的に話し合って、鎖国を理解してもらおうよ」という感じの意見だったのですが、

それでも幕府批判は幕府批判・・・蛮社の獄(ばんしゃのごく=言論弾圧によって長英は捕らえられ、終身刑を言い渡されて伝馬町牢屋敷(てんまちょうろうやしき=東京都中央区)に送られてしまうのです。

やがて、
お隣=(しん=中国)とイギリスの間でアヘン戦争(8月29日参照>>)が起こり、日本にもその噂が伝わって来た弘化元年(1844年)、

牢屋敷が火事になって「切り放ち※」が行われた事をキッカケに脱獄を決意する長英。
※「切り放ち」=火災による焼死を防ぐため避難目的で囚人を一時的に釈放して3日以内に戻れば罪一等を減じ、戻らなければ死罪にする制度…)

ちなみに今回の火災・・・長英が同室の囚人をそそのかして放火させた説もあるくらいで、おそらく長英は、はなから戻る気ゼロだったようですが、、、

その後は各地を点々とする中で、
一時、翻訳した兵法書が宇和島藩(うわじまはん=愛媛県宇和島市)伊達宗城(だてむねなり)の目に留まって宇和島藩の庇護を受けていた時は、長英の指揮によって最先端の砲台が築いたりもしましたが、

結局は弟子たちを頼りつつ、関東周辺に舞い戻って潜伏・・・

すでに手配書が出ていたため、澤三伯(さわさんぱく)という偽名を名乗り、硝酸(しょうさん=HNO3)で顔を焼いて人相を変え

そんな中でも洋書の翻訳の仕事を請け負ったり、細々と町医者をしたり(食べていかなアカンからな)していましたが、

嘉永三年〈1850年)10月30日、妻子とともに青山百人町現在の南青山5丁目)に潜伏していたところを手配書を見た者に通報され、遠山の金さん配下の南町奉行所の同心たちに取り囲まれてしまいます。

「もはやこれまで!」
と思ったのか?

長英は、その場で自刃して果てたのです。
享年47。。。

ご存知のように、ペリーが浦賀沖に現れるのは、長英の死から3年後の嘉永六年(1853年)6月の事(6月3日参照>>)・・・

この時にようやく、長英が示した外国への対応策に幕府が目を向ける時が来たワケです。

長英が、名前を変え、顔を変え、逃げ隠れしながらも生き延びようとしたのは、いつかやって来るであろうそんな未来が見たかったからなのかも知れませんね。
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