足利義昭からの副将軍or管領就任要請を断った織田信長の心中やいかに
永禄十一年(1568年)10月23日、足利義昭が織田信長を招いて能楽を催した席で副将軍か管領に任命しようとしますが、信長はこれを断りました。
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亡き先代=足利義輝(あしかがよしてる=第13代室町幕府将軍)の弟である足利義昭(よしあき=義秋)を奉じての上洛を果たした織田信長(おだのぶなが)(9月7日参照>>)
永禄十一年(1568年)10月18日には、朝廷からの正式な宣旨(せんじ=天皇の命が書かれた文書)を受けて、義昭は第15代室町幕府将軍に就任します(10月18日参照>>)。
将軍宣下を受ける義昭(太閤記より)…中央でひれ伏しているのが義昭で、その右にいるのが信長
その5日後の永禄十一年(1568年)10月23日、
「今回、その身を削って尽力してくれた者たちを労おう」
という義昭の提案により、細川邸にて能楽の宴が催される事になったのです。
そして、細川藤賢(ほそかわふじかた)のお酌で、まずは一献傾けてご機嫌な義昭が、
この席にて、
久我通俊(こがみちとし=公家)
細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎:幕府家臣)
和田惟政(わだこれまさ=幕府家臣)
の3人を通じて信長に打診して来たのです。
有名な、
「君を、副将軍(ふくしょうぐん)か管領(かんれい)かに任命しようと思うんやけど」
のお誘いです。
副将軍とは・・・
その名の通り、将軍の次の席・・・
室町幕府政権下では常設の地位ではありませんでしたが、あの初代将軍の足利尊氏(たかうじ)の時代に、その右腕だったと言われる弟の足利直義(ただよし)が就任した事もありますし、一時期は管領家(かんれいけ=管領を輩出する家柄)の斯波(しば)家の人が就任してたこともあるスゴイ役職。。。
(※江戸時代に副将軍はいないので水戸黄門は格さんの勘違い)
一方の管領は・・・
ご存知、はじめは執事(しつじ)と呼ばれていた将軍を補佐するNO.2の役どころで、先の尊氏の時に高師直(こうのもろなお)が初代となって以来、常に将軍の右腕として活躍して来た配下の筆頭で、この頃には、上記の斯波家と、応仁の乱(おうにんのらん)で有名な細川勝元(ほそかわかつもと)の細川家と畠山(はたけやま)家の独占状態でした。
信長の織田家は、代々斯波家の家臣の立場にある家柄ですから、この管領就任だって破格の出世・・・幕府としては大サービス手土産なわけです。
ところが、ご存知のように、
信長は足利家の桐紋の使用権と斯波家並の礼遇だけを賜って、副将軍も管領も断っちゃうのです。
(※この時の桐紋使用権は、後に信長から秀吉に下さます)
で、この副将軍辞退の一件についての信長の心中については、
かつては、
「信長は自らが天下人になる目的を持っていて、はなから義昭の下に就くような形になる副将軍や管領には興味が無かった」
という見方が一般的でした。
かく言う私も、初期のブログでは、そのように書いていた事もありました(←もう20年近くやってるもんで…(^o^;))。
しかしここンところは、違う見方が主流となっています。
そもそも落ち着いてよ~く考えたら、
「信長は自らが天下人になる目的を持っていて…」
って、どう見ても、この後の歴史を知ってる者だからこその推察ですよね?
このあと、義昭と信長の関係が悪くなり、最終的に信長によって義昭が京都を追われる(7月18日参照>>)事をしってるので、ついつい、そっち方向に考えちゃうわけです。
しかし、その固定観念から離れてみると、未だ岐阜に拠点を置いているこの時点での信長が、果たして京を中心とした天下の事を考えるかどうか???
ちょっと早い気がしますね。。。
そう思って、かの『信長公記』の記述を見てみると、、、
この同日の話として、「信長を副将軍か管領に…」の話が出る前に、信長から演目=能楽についてのダメ出しがあった事が書かれています。
それは・・・
この日、義昭が用意した能楽の演目は、『弓八幡(ゆみやわた)』をはじめとする13番あったのを、
その目録を見た信長が、8番削って、
上記の『弓八幡』プラス
『八島(やしま)』
『定家(ていか)』
『道成寺(どうじょうじ)』
『呉羽(くれは)』
の5番だけに縮めた…というのです。
その理由について
「まだ戦いが終わったわけではなく近隣諸国を平定しなければならない…」
だそうで…
↑
なので、
「はよ、岐阜に帰らしてくれや!」
って事らしい。。。
現に信長は、すぐさま帰国の準備に入り、翌日には義昭に帰国の挨拶をして、さらに翌日の25日に京都を出発・・・
28日には岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)に帰城しています。
そう、信長さんの言う通り、未だ敵の多いこの時点で「天下を狙おう」など、ぶっ飛び過ぎです。
それに、おそらく今回の上洛は、信長にとっては短期出張。。。あくまで、この時点での信長は、自身の拠点を岐阜から変えるつもりは無かったでしょう。
しかし、副将軍や管領に就任してしまったら、京都に常駐するしかありません。
そうなれば、
尾張(おわり=愛知県西部)や美濃(みの=岐阜県南部)主体の主力兵はどうする?
兵も京都に常駐するん?
いやいや、さすがにそれは無理やろ~
ほな、毎回大軍連れて京都に来るん?
てなるし、結局それもムリでしょ。。。てなるだけ
なので、副将軍も管領も、現段階の信長が引き受ける事は、はなから無かったと思われます。
未だ先の状況が読めないこの時点での信長は、義昭をトップに据えつつも自らは幕府内に入る事無く、あくまで拠点を岐阜に置いておく事がベストと考えていたのかも知れません。
なんせ、この2ヶ月チョイ後には、信長の上洛を拒んでいた三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)らによる義昭仮御所襲撃=本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)の変が起こり(1月5日参照>>)、義昭の命すらヤバかったわけですからね。
ちなみに、信長が岐阜を離れて安土(あづち=滋賀県近江八幡市)への移転に着手するのは、この8年後の天正四年(1576年)の事になります(2月23日参照>>)。
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コメント
中国史をネットで発信しているある人が、「少年漫画の主人公じゃあるまいし最初から天下人に俺はなるなんて言っている人はいない」と言っていましたが信長だって当然そうですよね。
これは秀吉や家康にも言える事かもしれませんね。
投稿: ベルトラン | 2024年10月28日 (月) 12時17分
ベルトランさん、こんばんは~
ですよね~
幼稚園や小学校低学年では色々夢見る物ですが、
大人でそれは無いですわな
ま、途中でチャンスが巡って来た感はありますが…
投稿: 茶々 | 2024年10月29日 (火) 04時37分
最後には朝廷から右大臣に任官されていますが、朝廷と幕府とでは格が違うという概念もあったのでは?
再来年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」ではディーン・フジオカさんに信長を演じてほしいです。
投稿: えびすこ | 2024年10月30日 (水) 09時08分
えびすこさん、こんばんは~
おディーン様…穏やかそうな信長で良き(~o^)
投稿: 茶々 | 2024年10月31日 (木) 02時54分