桓武天皇が望んだ新体制~2度の郊祀と百済王氏
延暦六年(787年)11月5日、桓武天皇が2度目の郊祀を行いました。
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郊祀(こうし)とは、古代の中国で行われた天子(てんし=天命を受けて天下を治める君主)が都もしくはその近くに円丘を築いて天帝と王朝の始祖を祀る儀式の事・・・つまりは、
「自分は天=神から選ばれてこの世界を治める者だ」
てな事を自分自身で宣言し天の始祖神に報告するみたいな儀式です。
日本では『日本書紀』の中で、
初代天皇に即位した神武天皇(じんむてんのう)(2月11日参照>>)が、鳥見山(とりみやま=奈良県宇陀市と桜井市の境にある山)にて神武四年(紀元前657年?)の2月に初めて行ったと記されいます。
そして今回・・・
第50代天皇で、「鳴くよウグイス平安京」でお馴染みの京都に都を遷す事になる桓武天皇(かんむてんのう)が、
延暦四年(785年)の11月10日と、2年後の延暦六年(787年)11月5日の2回、郊祀を行った事が記録されています。
当時は、まだ都は平安京ではなく、その前の長岡京(ながおかきょう=京都府向日市)なので、場所は長岡京の南東郊外にあたる河内国交野柏原(かたのかしはら=交野ケ原)にて行われました。
現在の大阪府枚方市片鉾本町に杉ヶ本神社という神社があるのですが、そのあたりに昭和初期まで小さな円丘が残っていた事が知られており、そこが祭場の跡だとされています。
・・・で、桓武天皇はなぜ?
神武以来とおぼしきこのような儀式を行ったのか??
実は、それだけ、桓武天皇の存在が危うかったワケです。
その1番は、これまでの旧勢力です。
以前、桓武天皇の父である光仁天皇(こうにんてんのう=第49代)のページ(10月1日参照>>)でも書かせていただきましたが、飛鳥時代に起こった弘文天皇(こうぶんてんのう=第39代・天智天皇の皇子)と天武天皇(てんむてんのう=第40代・天智天皇の弟)の間で起こった皇位継承争い=壬申の乱(じんしんのらん)(7月23日参照>>)に勝利して政権を握った天武天皇系の天皇が仕切っていたのが奈良時代(天平時代)であったわけで、
光仁天皇は、そこから100年ぶりに即位した壬申の乱に負けた側の天智天皇(てんじてんのう=第38代)系の天皇なのです。
それは、天皇家に血縁が無い僧侶であった道鏡(どうきょう)が天皇になりかけた事件(10月9日参照>>)でも感じるように、かなり強い仏教勢力や、それを後押しする側の藤原氏などの勢力に脅威を抱いた新派の高官たちが、
それらの争いにほぼほぼ無関係な光仁天皇に次期天皇という白羽の矢を立てた事でも察しがつきます。
しかし、それでも光仁天皇の皇太子には他戸親王(おさべしんのう)という藤原氏全盛時代(8月3日参照>>)の聖武天皇(しょうむてんのう=第45代)の皇女である井上内親王(いのえないしんのう)が産んだ皇子が立てられていたのですが、
宝亀三年(772年)、その井上内親王が光仁天皇を呪詛(じゅそ=呪いをかける事)した罪に問われ、井上内親王は皇后を廃され、他戸親王も皇太子を廃されて、翌・宝亀四年(773年)に山部親王(やまべしんのう)=後の桓武天皇が皇太子に決まったという経緯がありました。
(なんか怪しい気がしないでもない)
その後、天応元年(781年)、父からの譲位を受けて桓武天皇として即位・・・同母弟の早良親王(さわらしんのう)を皇太子に立てます。
ちなみに桓武天皇は、去る宝亀五年(774年)に皇后(こうごう)の藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)との間に男の子(後の平城天皇)をもうけていますが、さすがに、この時点でまだ7歳の幼子だった息子を皇太子にはできなかったのでしょう。
そして即位と同時に着々と進められていったのが長岡京への遷都(せんと=都をうつす)です(11月11日参照>>)。
これこそ旧勢力の払拭・・・なんせ、これまでは都が明日香にあろうが藤原京に遷ろうが、さらに平城京になろうが、その移転の度に同時に移転していた由緒正しき大寺院を、今回は奈良に残したまま、ほぼ未開の地であった長岡京への遷都なのです。
しかし、そんな中、延暦四年(785年)9月23日に起こったのが桓武天皇の右腕として活躍していた藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺事件です。
実行犯の供述により首謀者とされた大伴家持(おおとものやかもち=事件の1ヶ月前に死亡:8月28日参照>>)が官籍から除名されたうえに複数人の斬刑や流刑者がでますが、その中で早良親王の関与も疑われたのです。
早良親王自身は関与を否定しますが、淡路への流罪となり、哀れ、流刑地に向かう途中でお亡くなりに(9月23日参照>>)・・・
(またもや怪しい気がしないでもない)
これを受けて、同年の11月10日に桓武天皇が行ったのが最初の郊祀の儀式・・・そして念を押すように、その2年後の延暦六年(787年)11月5日に2度目の郊祀を行ったのです。
冒頭に書きました通り、この郊祀という儀式は「自身が神から選ばれて世界の支配権を与えられた事を天帝と王朝の始祖を祀って広く宣言する」わけですが、
『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、
「高紹天皇配神作主尚饗又曰維延暦六年歳次㆓丁卯㆒十一月…」
の記述があり、この2度目の郊祀の時、桓武天皇は天地の神とともに王朝の始祖として高紹天皇祀ったと書かれています。
この高紹天皇とは、桓武天皇の父=光仁天皇の和風諡号(わふうしごう=和風のおくり名)で「たかつぎのすめらみこと」と読みます。
つまり、
「自身の王朝の始祖=初代は神武天皇ではなく父の光仁天皇だ」
と・・・
これは、まさに新政権誕生宣言です。
そして、この宣言に同調するように、この前後から桓武天皇に重用されはじめたのが百済王氏(くだらのこにしきし)でした。
この百済王氏は、かつて朝鮮半島にあった百済(くだら)という国の王族の子孫です(上記の系図参照↑)。
後漢(ごかん=中国の王朝)が滅亡した4世紀頃から朝鮮半島北部の高句麗(こうくり)と新羅(しらぎ)に悩まされていた百済は、その国防のために自国の南にある加羅(から)と任那(みまな・にんな)を支配下に置く日本と同盟を結んでいました(3月22日参照>>)。
しかし第31代百済王の義慈王(ぎじおう)の時代=660年に、百済は新羅に攻め込まれて滅亡・・・
ご存知のように、この時、百済を救うべく日本軍が海を渡って戦いに行ったのが白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦いなのですが、
この時、日本百済連合軍の旗印として先頭にたったのが、同盟の証として日本で暮らしていた義慈王の息子=豊璋(ほうしょう)でした。
とは言え、
結局は、唐(とう=中国)の支援を受けた新羅に、残念ながら日本&百済連合軍は敗れしまい(8月27日参照>>)、百済の再興は叶わず、豊璋は捕らえられて流刑にされてしまったのですが。。。
この時、出兵せず日本に残ったのが豊璋の弟の善光(ぜんこう)・・・この方が、百済王氏の祖となる人物で、その後の持統天皇(じとうてんのう=第41代)の時代に貴族並みの待遇で日本の朝廷内に組み込まれるのです。
さらに、その善光の曾孫にあたる敬福(きょうふく)の時代に陸奥守(むつのかみ=東北地方の国司)であった事を活かし、あの東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)の大仏様建造のために黄金九百両を献上した事で7階級特進・・・
宮内卿に任ぜられたうえに河内守(かわちのかみ=大阪府東部の国司)を拝領し、ここから百済王氏の本拠地を河内に移します。
(それまでは難波=大阪市内に住んでいて、今も市内に百済という地名が残ってます)
もちろん、その後も奥羽の経営に、専門職に…と活躍する百済王氏の人々ですが、ここに来て、もはや桓武天皇のブレーン隊の一翼を担うほどの活躍を遂げ、
桓武天皇自身も百済王教法(きょうほう=女御)・百済王教仁(きょうじん=官人)・百済王貞香(ていか=官人)の3人の姫を娶っています。
(ちなみに次々代の嵯峨天皇にも百済王慶命が女御となってます)
では、なぜ?桓武天皇は、ここまで百済王氏を重用したのか?
それは、桓武天皇の出自にあったのかも知れません。
桓武天皇の…父はもちろん光仁天皇ですが、その生母は高野新笠(たかののにいがさ)という女性・・・この方のルーツが朝鮮半島にあったのです。
先ほどの義慈王の6代前にあたる武寧王(ぶねいおう=第25代百済王)・・・この後を継ぐのは第26代の聖王(せいおう)ですが、
その兄である純陁太子(じゅんだたいし)が日本滞在中に亡くなっていて(継体天皇の頃?)、その子孫が和氏(やまとし)として、やはり貴族並みの扱いで朝廷に仕えており、高野新笠はその和乙継(やまとのおとつぐ)の娘なのです。
この時代です。
ひょっとしたら、新政権を打ち立てようとする桓武天皇の反対派の中には、母親の身分の低さ(官人→夫人)や日本以外のルーツを持つという、本人にはどうしようもない部分を突いて来る人もいたかも知れません。
そこを中国のように周辺諸国を臣下として取り込んでいく形にして壮大なグローバル感を出してしまえば、見栄えも良いし母方の出自云々の問題もクリアできてしまう?
(…と私は思う)
ご存知のように古代の中国は、冊封(さくほう)によって中国王朝の臣下となった者に爵位(しゃくい=血族や功労によって与えられる栄誉称号)を与えて取り込み、外交の安全保障を保っていたわけですから・・・
その中国と同じ方式で郊祀の儀式を行うと同時に、百済王氏の面々が新王朝の片翼として傍らに控えていれば・・・って事なのだと思います。
あくまで個人的意見ですが、
かの壬申の乱の勝利で政権を手にした天武天皇が、始祖として天照大御神(アマテラスオオミカミ)を伊勢神宮(いせじんぐう=三重県伊勢市)に祀り、記紀の編さんを命じて自らの正統性を示した(2月25日参照>>)のと非常に似ている気がします。
現在、大阪府枚方市中宮に百済王氏の祖霊を祀る百濟王神社(くだらおうじんじゃ)があり、その隣には未だ整備中&発掘調査中の百済寺(くだらじ)跡がありますが、ここを中心に百済王氏一族が暮らしていたと言われています。
百済王神社 |
百済寺跡 |
ちなみに、これから後の百済王氏の子孫たちの中には、例の「皇族多すぎで臣下になってちょ」で、皇子たちが「平(たいら)」や「源(みなもと)」の姓を賜って平氏や源氏になった(7月6日参照>>)のと同じように「源」の姓を賜った事で、すっかり日本の朝廷に溶け込んだ方々もいます。
今年の大河ドラマ「光る君へ」の主人公の1人である藤原道長(みちなが)の奧さん・・・正室の源倫子(ともこ)さんの方ではなくて側室の源明子(あきこ)さんは百済最後の王=義慈王から数えて13代目の子孫なのです。
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