戦国を渡り歩いて楠木正成の名誉を回復した楠正虎
永禄二年(1559年)11月20日、ご先祖=楠木正成の名誉回復を願い出ていた大饗正虎に対し、正親町天皇が応え、河内守に任命・・・楠正虎に名を改めました。
・・・・・・・
楠正虎(くすのきまさとら=楠木正虎)は、 その字のウマさで数々の武将に仕えた戦国の人・・・ちょいちょい『楠木正虎』という『木』の文字が入った表記も見かけますが、阿部猛氏&西村圭子氏共著の『戦国人名辞典』では、上記の『楠正虎』表記になっていますので、今回はコレでいきますね。
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そもそも正虎は、河内大饗(おおあえ)氏の大饗成隆(おおあえなりたか)の息子として生まれたとされ、早いうちから書家の飯尾常房(いいのおつねふさ)の流派である世尊寺流(せそんじりゅう)の書道を学び、
めきめきと上達した筆さばきを武器に、天文五年(1536年)に足利義晴(あしかがよしはる=第12代室町幕府将軍)に出仕し、それをキッカケに大饗正虎を名乗っていました。
なんせ世尊寺流は宮中や公家に尊ばれた書道流派で、そこで一流と呼ばれるレベルに達していた正虎は当世の文化人としても充分渡り歩いて行けるわけで・・・
その後、将軍の足利義晴と管領(かんれい=将軍の補佐役)の細川晴元(ほそかわはるもと)を近江(おうみ=滋賀県)へ追いやって京都を手中に治めた三好長慶(みよしながよし)(6月24日参照>>)の家臣として上り調子の松永久秀(まつながひさひで)(7月24日参照>>)の右筆(ゆうひつ=書記官)となります。
ここで正虎にラッキーが訪れます。
その松永久秀が親切にも朝廷に口をきいてくれ、正虎の長年の夢だったご先祖の名誉回復が実現するのです。
もともと河内大饗氏は、あの鎌倉討幕&室町初期の南北朝時代に活躍した楠木正成(くすのきまさしげ)(5月25日参照>>)の三男であった楠木正儀(まさのり)の孫の正盛(まさもり)が、河内国の大饗村に居を置き大饗正盛(おおあえまさもり)と名乗ったのがはじまりとされています。
正虎は、その正盛の孫だと言うのです(右図参照→)。
とは言え、正盛の父である正秀(まさひで)が一般的には正儀の息子とされるものの、一説には正儀の息子の正勝(まさかつ)の子が正秀・・・
つまり正儀の孫かも知れないという曖昧ぶりで、要はあくまで自称であり、しかも正虎の父親とされる成隆も養子として大饗家に入った人とか、なんなら、血筋的にはまったく関係ない人だった…という話もあります。
なんせ、すでに世は足利将軍の時代ですから、楠木正成は初代の足利尊氏(たかうじ)に歯向かった人=賊軍であり朝敵になるわけですので、そこらへんの経歴がウヤムヤになってしまうのは致し方ないところですし、
なんなら負け組として勝者からの追及を免れるために新しい苗字名乗って、わざと家系図をウヤムヤにしてる場合もある時代ですからね~
そもそも、この時代は織田信長(おだのぶなが)や徳川家康(とくがわいえやす)だって家系図怪しいわけで・・・
なので
時期的に自己申告がまかり通る時代でもあった事、
また、
この前年に、かの三好長慶と足利義輝(あしかがよしてる=義晴の息子で13代将軍)が和睦して、無事将軍が京都に戻った(11月23日参照>>)事もあり、
将軍を推しあげた事実上の天下人である三好長慶&その家臣の松永久秀のネームバリューを以ってして必死のパッチで願い出て、
見事、 永禄二年(1559年)11月20日、その嘆願を聞き届けた正親町天皇(おおぎまちてんのう=第106代)が、楠木正成の罪の赦免をするとともに正虎を従四位上&河内守(かわちのかみ)に任命したのです。
(もちろん将軍も了解済みです)
思えば、足利将軍家はご先祖様を抹殺した張本人・・・正親町天皇は、そのご先祖が忠誠を尽くした南朝の天皇に敵対した北朝系の天皇。。。
よくぞ、この2系統に頭下げたな~
って思いますが、それこそが正虎の世渡り上手な柔軟さ。
このあとの正虎は、その柔軟さが功を奏して、見事、戦国の世を筆一本で生き残っていくのです。
三好家が衰退しはじめ、松永久秀の調子が悪くなると、織田信長の側近として活躍・・・ちなみに歴史番組等でチョイチョイ出て来る信長から秀吉の奧さん=おねへの「秀吉ハゲネズミ呼ばわり」のあの手紙…(5月12日の真ん中あたり参照>>)
これは信長の直筆ではなく、当時、信長の右筆を務めていた正虎が書いた物だとされています。
その後、あの御馬揃え(2月28日参照>>)も参加したりして(七番=坊主衆楠長譜)、ドップリ織田に浸かっていたさなかの天正十年(1582年)に起きた本能寺(ほんのうじ=京都市中京区)の変(6月2日参照>>)で信長が倒れると、
今度は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の右筆として、天正十六年(1588年)4月に聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)に行幸した後陽成天皇(ごようぜいてんのう=第107代)(4月22日参照>>)に自らの手で清書した『聚楽第行幸記』を献上します。
また、秀吉が九州征伐=薩摩攻め(4月17日参照>>)に関しては記録係として『九州陣道の記』を著し、文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵(4月13日参照>>)の時には名護屋城(なごやじょう=佐賀県唐津市)にて帳簿係を全う。。。
晩年は出家して式部卿法印となり、文禄五年(1596年)1月11日に、その生涯を閉じたとされます。
生涯、合戦の真っただ中に出る事が無かったおかげで76歳という、当時としては長寿を全うした正虎ではありましたが、それこそ戦場だけが勝負の場ではありません。
戦国という荒波の中で、見事、筆一本で波に乗り続ける事が出来たのも、才能であり、努力であった事でしょう。
一説には、この正虎による楠木氏復活をキッカケに、巷で『太平記』を読むのが流行ったとか流行らなかったとか・・・
ここからは、
蛇足ですが~オモシロイですよね~
室町時代は楠木正成が朝敵・・・
維新が成ると足利尊氏が朝敵。。。
↑は、あくまで歴史好きの戯言です。
令和の今は、どちらも朝敵でなくて良かった良かった(^o^)
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