斎藤道三VS織田信秀の狭間で鷹司が滅びる~大桑城牧野合戦
天文十六年(1547年)12月4日、斎藤道三VS織田信秀の美濃大桑城争奪戦の中で、道三に与した鷹司政光を織田信秀が撃つ牧野合戦がありました。
・・・・・・・
ここのところ、美濃(みの=岐阜県南部)の守護(しゅご=幕府公認の県知事)であった土岐(とき)氏では、土岐政房(ときまさふさ)の嫡男(ちゃくなん=後継者)である土岐頼武(よりたけ)と弟の土岐頼芸(よりのり)による後継者争いが激しさを増して来ていました。
それは頼武が亡くなったであろう享禄三年(1530年)からは、その息子(=つまり頼芸の甥っ子)である土岐頼充(よりみつ=頼純とも)に引き継がれ、戦火は美濃全土に広がる状況になります。
しかし、やがて天文四年(1535年)に、頼芸が亡き父の十七回忌の法要を主導して自らが後継者である事を宣言して見せた事が功を奏してか、
外戚(がいせき=母方の親戚)の朝倉(あさくら=越前守護)氏や、これまで対立していた六角(ろっかく=近江守護)氏からの支援を得た頼芸は、足利義晴(あしかがよしあhる=第12代室町幕府将軍)をも取り込んで、翌・天文五年(1536年)には正式に美濃守護の座を獲得します。
さらに六角氏から嫁を娶り、徐々に後継者争いを終息に向かわせる事ができ、戦いのさ中で越前へと逃走していた土岐頼充とも和睦して、頼充もようやく美濃に戻る事ができました。
しかし一方で、この頃から重臣の斎藤道三(さいとうどうさん)との仲がギクシャクし始め、何かと奸悪ムードが漂うように・・・
そんなこのんなの天文十一年(1542年)9月、代々土岐氏の家臣であった大桑城(おおがじょう=岐阜県山県市)の和田高行(わだたかゆき)が、
そんな道三に態度に憤慨・・・仲間と徒党を組んで、道三の追放を画策するのです。
それを知った道三は城を急襲し、不意を突かれた和田高行は討死・・・またたく間に大桑城を落城させたのです。
大桑城にいた頼充は、からくも脱出し鷺山城(さぎやまじょう=岐阜県岐阜市)へと移りますが、この一件をキッカケに頼芸は息子の土岐頼次(よりつぐ)とともに、道三によって尾張に追放されてしまうのです。
そんな頃の尾張と言えば・・・そう、信長父ちゃんの織田信秀(おだのぶひで)の時代。
もともと
「いずれは隣国(美濃)に侵攻を」
てな気持ちを持っていた信秀は、道三を倒して頼芸の守護復権を支援しようと、度々美濃に侵攻しては道三拠点の稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市:現在の岐阜城)近くに迫りますが、
●【天文篠脇城の戦い】参照>>
●【井ノ口の戦い】参照。。
さすがの道三の反撃は巧みで、何度かダメージを与えつつも城を落とすには至りませんでした。
そんなこんなの天文十六年(1547年)9月22日、加納口(かのうぐち=同岐阜市:井ノ口)にて信秀はかなりの大敗を喫してしまいます。(【加納口の戦い】参照>>)
さらに2ヶ月後の11月17日、大桑城に戻っていた土岐頼充が、24歳の若さで病死してしまうのです。(毒殺説アリ)
動揺する城内の様子を見て取った道三は、これをチャンス!とばかりに再び大桑城に攻め込みます。
葬式の準備に忙しく、全くの無防備だった大桑城は、予期せぬ兵士の襲来によりアッと言う間に攻め落とされてしまいます。
ピンチの頼芸は、居合わせた国枝重光(くにえだしげみつ)や山本数馬(やまもとかずま)らに護られて何とか城を脱出・・・またまた織田信秀を頼って尾張に行くしかありませんでした。
この状況に危機感を覚えたのが、西美濃に風前の灯のように生き残っていた揖斐城(いびじょう=岐阜県揖斐郡)の揖斐光親(いびみつちか)、相羽城(あいばじょう=同揖斐郡)の長屋景興(ながやかげおき)でした。
しかし、彼ら=揖斐&長屋と同じ境遇にある長瀬城(ながせじょう=同揖斐郡)の鷹司政光(たかつかさまさみつ)は少し違いました。
鷹司という由緒正しきお名前でお察しの通り、この鷹司家は、あの藤原(ふじわら)氏の五摂家(ごせっけ=藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立つ近衛家・一条家・九条家・二条家・鷹司家)の一つの鷹司・・・左右大臣や摂政に就く事もできるすンごい家柄なわけですが、
ご先祖様の1人が、美濃守護である土岐氏の女性を正室に迎えた縁から、そのうちの一家が武家となり、この頃は美濃国大野郡長瀬村一帯を領地としていたのでした。
…で、当時の当主であった鷹司政光は、時代の情勢を読み、道三に与していて、かの相羽城をけん制すべく近くに複数の砦や向城(むかいじろ=敵に相対する城)を築いて対抗していたのです。
そんなこんなで大桑城の落城で土岐頼芸を尾張に迎えた織田信秀は、先の加納口での雪辱と美濃における守護勢力回復のため、再び出兵を決意・・・鷹司政光の長瀬城を攻めるのです。
牧野合戦・関係要図↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>
かくして天文十六年(1547年)11月末、まずは相羽に近い更地の荒野にて戦いが開始されます。
寄せ来る織田軍を迎撃する鷹司・・・しかし、その甲斐もなく重臣たちが次々と討死してしまった事から、やむなく鷹司政光は本拠の長瀬城へと撤退を開始。
はじめは、それを根尾口(ねおくち=岐阜県本巣郡付近)から追撃しようとしていた信秀でしたが、翌・11月晦日には軍制を整えなおして揖斐口(いびくち)から攻め入ります。
ここで籠城が不利と見た政光は、池田本郷城(いけだほんごうじょう=岐阜県揖斐郡池田町)の国枝氏とともに谷汲村(たにぐみむら=岐阜県揖斐郡)付近の牧野(まきの)に陣を進め、ここで敵を迎え撃つ事に。。。
ここは狭い盆地となっており、地の利に勝る鷹司には有利なはず・・・
と思えましたが、強靭な織田勢が、その上を行く猛攻で主だった猛者を次々と討ち据えていきます。
やがて援軍として来ていた国枝一族も潰滅状態となり、
「もはや、これまで!」
と覚悟を決めた鷹司政光は、天文十六年(1547年)12月4日、弟の鷹司光政(みつまさ)とともに、城を枕に壮絶な討死を遂げたのです。
ここに西美濃の武家として生きて来た鷹司家は滅亡しました。
この報復?
とばかりに1週間後の12月11日に動くのが斎藤道三・・・となるので、この続きとなるお話は、その12月11日のページ>>でどうぞ(#^o^#)v
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