流れ公方の始まり…放浪の将軍となった足利義稙と大内義興
永正四年(1507年)12月25日、大内義興が明応の政変で廃された将軍=足利義稙を奉じての上洛を図りました。
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第10代室町幕府将軍=足利義稙(あしかがよしたね)は、初めに足利義材(よしき)、次に足利義尹(よしただ)、そして義稙と名を変えた将軍ですが、ややこしいので今回は義稙さんで通しますね。
…で、足利義稙の父は、あの応仁の乱(5月20日参照>>)のモメ事の一つである、足利義政(よしまさ=第8代将軍)の後継者を争った息子と弟の、弟の方で途中でトンズラしたあの足利義視(よしみ)(1月7日参照>>)です。
この父が、最終的に敗北した西軍側についていたため、父=義視に従って義稙も京を追われて美濃(みの=岐阜県南部)で暮らしていましたが、
ご存知のように、義政の後を継いで9代将軍になっていた義政息子の足利義尚(よしひさ)が若くして亡くなってしまった(子供は女子だけ)(3月26日参照>>)ため、義政が死去した延徳二年(1490年)に第10代将軍となったのでした。
将軍就任直後には、先代の義尚から引き継いだ六角征討(ろっかくせいとう=近江の六角高頼を征伐)にもハリキッって参加していた義稙でしたが(12月13日参照>>)、
応仁の乱が終わっても、まだ後継者争いを止めない畠山(はたけやま)同志の戦い(7月12日参照>>)に、畠山政長(はたけやままさなが)の味方として参戦すべく、河内(かわち=大阪府東部)に向かっていた明応二年(1493年)4月、
京都にて将軍の留守を預かるはずの管領(かんれい=将軍の補佐役)=細川政元(ほそかわまさもと)がクーデターを決行し、義稙の将軍職を廃し、従兄弟の足利義澄(よしずみ)を第11代将軍として擁立・・・
明応の政変(めいおうのせいへん)(4月22日参照>>)です。
味方するはずだった畠山政長も、進退窮まって1ヶ月後に自刃してしまい(4月25日参照>>)、行き場を失った義稙はやむなく政元に投降し、その後、幽閉の身となったのでした。
実は、この時、河内で戦う義稙に従ってともにたのが、周防(すおう=山口県東南部)の在庁官人(ざいちょうかんにん=地方官僚)=大内義興(おおうちよしおき)でした。
この大内義興は、先の応仁の乱で西軍の中心人物の一人である大内政弘(まさひろ)の息子。。。
乱勃発から5ヶ月経って参戦して来た大内政弘(10月2日参照>>)に西軍諸士が沸き立った事を見ても、その大物ぶりが解るというもの。。。
そう言えば、応仁の乱で最後までゴネてたのも大内政弘・・・この方が、納得して周防に帰った事によって「応仁の乱は終結」とされるみたいですね(11月11日参照>>)。
なので大内氏は中央政権とも深い関わりがあり将軍との関係も強かったわけですが、
この時は、こんな重要事項が起こったにも関わらず、意外にアッサリと義稙と離れて京都へと帰還しています。
…というのも、義興は、義稙の周りにいる奉公衆とは、あまりウマくいっていなかった中で、
このあとに小豆島(しょうどしま=香川県)に流されるはずだった義稙が、家臣たちの手引きによって脱出して、無事越中(えっちゅう=富山県)の畠山尚順(はたけやまひさのぶ)のもとに逃れた事にあったようです。
越中の向こうにある能登(のと=石川県北部)は、自身の母の義父である畠山義統(よしむね)の領地であった事も、少なからず影響があったかも知れませんね(イザという時連絡取れますから)。
とにもかくにも、ここで義稙と別れた義興は、その翌年に病にて体調を崩して隠居した父に代わって大内氏の第15代当主となりました。
一方の義稙も、逃亡先の越中では「越中公方」と呼ばれていたらしく、都落ちして来た敗北者…というよりは、ある程度の権威を持ち、この先、政権を奪回するかも知れない重要人物として扱われていたようですが、、、
かと言って、義稙ひとりでは何もできませんから、自らを奉じて政権奪回に動いてくれる武将を求め、明応七年(1498年)頃には越前(えちぜん=福井県東部)の朝倉貞景(あさくらさだかげ)のもとに身を寄せます。
そんな中で、細川政元との和睦交渉も持ち上がり、
「ひょっとして都に戻って将軍に返り咲けるかもv(^o^)v」
となり、
かすかな希望が湧く中で、ここでは「越前公方」と呼ばれる義稙さん。。。
ところが、待てど暮らせど和睦交渉は一向に実らないし、頼みの朝倉は越前一向一揆の鎮圧に必死で(8月6日参照>>)、コッチ見てくれないし・・・
畠山尚順を以ってして宇治木幡(こばた=京都府宇治市)にて抵抗する(9月27日参照>>)も敗れた義稙は、結局、明応九年(1500年)には大内義興のもとに身を寄せる事になるのです。
そんなこんなの永正四年(1507年)、すでに水面下でモメ初めていた後継者問題がらみで、かの細川政元が暗殺されてしまいます(6月23日参照>>)。
生涯独身だった細川政元には、当然実子はおらず、3人の養子の間で起こっていた後継者争いが、いよいよ表面に出て来るのです。
3人の養子とは、
関白=九条政基(まさもと)の息子の澄之(すみゆき)、
阿波(あわ~徳島県)細川家から来た澄元(すみもと)、
備中(びっちゅう=岡山県)細川家からの高国(たかくに)。
…で、政元の死からわずか1ヶ月後の百々橋(どどばし=京都市上京区百々町)の戦い(8月1日参照>>)で、澄元と高国が組んで澄之を追い落とし、細川身内同士の大規模な戦いが幕を開けるのです。
京都を追われた明応の政変から14年、
大内を頼ってから7年・・・義稙にとってモンモンとしながら待ち望んだチャンスがやって来たのです。
かくして永正四年(1507年)12月25日、大内義興が将軍=足利義稙を奉じて東上を図る決意を固めたのです。
そして翌年6月に義興とともに義稙が上洛した時には、当然の行きつく先=残った澄元VS高国の構図でドンパチ始まっているわけですが、
(結局は唯一無二のトップを取りたがるのねん(ToT))
ここで義稙は高国に味方して参戦するのです。
というのは、政元に擁立されて自分に取って代わった義澄が澄元についていたからなのですが、
なんと、その義澄が永正八年(1511年)8月14日に死去・・・それまで少々負け気味だった義稙&高国連合軍は、
その10日後の船岡山(ふなおかやま=京都府京都市北区)の戦い(8月24日参照>>)で一気に逆転・・・敗北を喫した澄元は故郷の阿波へと去り、義稙は将軍の座に復帰するのです。
しかし、その将軍就任直後の祝賀パーティが畠山尚順の屋敷で行われる事に決定したために
「なんで畠山ん家でするん?」
「1番の功労者は俺ちゃうん?」
「1番は畠山なん?」
と、大内義興が激怒・・・これに高国もが乗っかった事で、両者と義稙との間に亀裂が生じ、義稙は京都を出奔(しゅっぽん=家出)し近江(おうみ=滋賀県)に身を隠してしまいます。
「これはイカン」
となって義興らが、改めて将軍への忠誠を誓った事で、この時は事なきを得ましたが、
永正十五年(1518年)に、大内義興と畠山尚順が領国経営のために京都を離れると、残った義稙と高国の間に溝が生じ始めるのです。
…というもの、すでに齢50を過ぎたであろうこの時に、まだ義稙には息子がいなかった。。。
一方、今は亡き義澄には、義晴(よしはる)&義維(よしつな)という男の子が二人いて播磨(はりま=兵庫県南西部)の赤松義村(あかまつよしむら)に預けれられて、しっかり養育されている。。。
そう・・・高国は澄元への対抗意識から義稙と組んだものの、高国にとって本来、将軍は誰でも良く、なんなら早く後継者を決めて、その人物を身近に置きたいわけで・・・
高国との亀裂が決定的となった大永元年(1521年)に義稙はまたまた京都を出奔して堺(さかい=大阪府堺市)に移動しますが、
もはや以前のように彼を呼び戻そうという動きはなく、すでに11歳となっていた澄元の遺児=足利義晴の方に風は吹く結果となってしまっていたのです。
結局、義稙は2度と京都に戻る事は無く、この2年後の大永三年(1523年)4月に58歳でこの世を去る事になるのですが、
とは言え、
この間、阿波で態勢を立て直した澄元が、このゴタゴタを好機とばかりに挙兵して高国らと戦う中では、
●【腰水城の戦い】>>
●【等持院表の戦い】>>
次期将軍となった義晴の座も安定した物ではなく、義晴もいつしか京都を追われ、結局は放浪の将軍=流れ公方となるのでした。
そんな将軍の放浪劇が終わるのは、義晴息子の足利義輝(よしてる=義藤)の時代・・・そのへんの経緯については、すでに書いておりますので、よろしければ、この先は【流れ公方に終止符~若き足利義輝】>>のページでどうぞm(_ _)m
ちなみに義晴の兄弟の足利義維(兄か弟かは不明)さんは、この後、細川後継者争いに打ち勝った細川晴元(はるもと=澄元の息子)によって堺公方(さかいくぼう)に擁立されていますが、そのお話は【幻の堺幕府】>>のページで。。。
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コメント
週刊スピリッツのコミック「新九郎、奔る」でいま足利義材(当時)が将軍から追われるところを触れています。
あと、義稙には息子が1人いたようですが、早くに亡くしているようです。
投稿: えびすこ | 2024年12月31日 (火) 09時41分
えびすこさん、こんばんは~
継承していくのは、なかなか難しいようですね。
投稿: 茶々 | 2025年1月 1日 (水) 03時55分