「大手違い」…本当はもっと早いはずだった徳川家定と篤姫の結婚
安政三年(1856年)12月18日、第13代江戸幕府将軍の徳川家定と薩摩の島津斉彬養女の篤姫が結婚しました。
・・・・・・・・・
今回の徳川家定(とくがわいえさだ=第13代将軍)と篤姫(あつひめ=後の天璋院)の結婚は・・・
本来なら、さほどモメる&急ぐ事も無い問題ではあるものの、家定が病弱であった事や、直近の最有力課題の外交問題があって、
血縁では最も近い(従兄弟同士)ものの未だ年少な紀州藩(きしゅうはん)の徳川家茂(いえもち=当時は慶福)か、
血筋は遠いものの賢明の誉れ高く年齢的にもちょうど良い水戸藩(みとはん)から一橋家(ひとつばしけ)に養子に入った徳川慶喜(よしのぶ)か、
で、朝廷&幕府&諸大名たちが政争を展開する中で、
老中(ろうじゅう)の阿部正弘(あべまさひろ)や福井(ふくい)の松平春嶽(まつだいらしゅんがく=慶永)らとともに徳川慶喜推しの薩摩(さつま=鹿児島県)の島津斉彬(しまづなりあきら)が、
その継承問題への発言権を強くして事を有利に進めるため、自らの養女である篤姫を徳川家定の御台所(みだいどころ=正室)として大奥に送り込んだ・・・所謂、政略結婚であった。
…という話が、これまで有力でした。
しかし
島津斉彬が、嘉永三年(1850年)に伊達宗城(だてむねなり=宇和島藩主)に送った手紙の中で家定の婚姻を気にかけている様子がうかがえるし、
嘉永元年(1848年 )に最初の奧さんを、 嘉永三年(1850年)に2番目の奥さんを立て続けに亡くした家定自身が、
「次は健康で長命な女子が良い」
として
「広大院さんにならって島津から夫人を迎えたい」
と言っていたらしい・・・
つまり、あのペリー来航(6月3日参照>>)の嘉永六年(1853年)より前に、すでに結婚話が持ち上がっていたであろう…というのが、最近の定説となっているようです。
ところで…家定が
「島津から嫁を…」
と言った代表格の広大院(こうだいいん)さんという女性は・・・
家定の2代前の第11代将軍の徳川家斉(いえなり)の御台所として大奥に入った第8代薩摩藩主の島津重豪(しげひで)のお嬢さんの事です。
以前に書かせていただいてますが、この11代家斉さんという方は、40人の側室に55人の子をなし、50年という長きに渡って将軍の座についていたお方・・・(1月7日参照>>)
(ちなみに在位50年は歴代最長記録です)
…と言っても、その中で成人した子供は男女合わせても25人という時代ですから、確固たる後継者を残し育成するためには、それぐらい頑張らなきゃいけない時代でもあったわけですが、、、
そんな中で、この広大院さんは、小柄ながらも一男をもうけ、同い年の夫=家斉よりも長生きしはったんです。
しかも、上記の子供たちは、側室が産んだ子も広大院さんの子供として育てられ、それらを仕切りつつ大奥もバッチリ束ねる気丈夫&体丈夫な人だったようで、
また、広大院の弟である島津斉宣(なりのぶ=第9代薩摩藩主)をはじめ、血縁の人たちは軒並み長寿な人が圧倒的に多かったのです。
この広大院さんは 天保十五年〈1844年)まで健在でしたから、文政七年(1824年)生まれの家定は、しっかりとその姿を見ているわけで・・・
それで立て続けに奥さんを亡くした後の家定が、
「広大院さんにならって…」
「島津から嫁を…」
となったわけです。
(将軍家から島津に嫁いだ竹姫さま>>の影響もあったかも)
とは言え、結局、実際には安政三年(1856年)12月18日という日付にて婚姻の運びとなったため、冒頭に書かせていただいたような、外交問題&将軍継承問題に関連した結婚のような憶測を産んでしまったのです。
では、なぜ、結婚まで6年もの歳月がかかってしまったのか?
それには複数のなんやかんやがあったんですね~
まずは・・・
結婚話が持ち上がった嘉永三年(1850年)頃には、島津家には年頃の娘さんがいなかった事。。。
それで縁者の娘を島津斉彬の養女として嫁がせようという事になり、まずは広大院さんに近い人たちから探していきますが、これがなかなかウマく行かない・・・
そんな中、これまでなかなか隠居しなかった第10代藩主の島津斉興(なりおき=斉彬の父)が隠居して、ようやく島津斉彬が藩主となって初めて鹿児島の土を踏んだ嘉永四年(1851年)、
まずは、江戸にいた頃から候補に…と思っていた広大院の弟で、八戸藩(はちのへはん=青森県八戸市)の藩主=南部信真(なんぶのぶまさ)に婿養子として入って八戸藩を継いでした南部信順(のぶゆき)の娘に白羽の矢を立てますが、残念ながら、鹿児島に帰国してみると、すでに結婚してしまった…との情報が、、、
「ならば…」
と、次に自らの異母弟である島津久光(ひさみつ)の娘=於哲(おてつ)を…と思ったものの、
「この子はまだ13歳で、チョイと幼いなぁ」
と思っていたところ、
( 斉彬が奥医師の多紀元堅に宛てた手紙によると…)
『…下着の上承り申し候…』
なんと、
「下着にて(候補の)皆々に対面したところ、周防娘(↑の於哲さんの事)よりは渓山(けいざん=先々藩主の島津斉宣の事)末子の忠剛の娘が16歳で相応…よろしく思った」
と…つまり、島津斉彬が直接会って
「この娘が良い」
って思ったのだとか。。。
この島津家一門で今和泉(いまいずみ=鹿児島県薩摩半島の南部)の領主(今泉島津家)であった島津忠剛(ただたけ)の娘が一(いち=市)という女性。。。
他にも何人か候補がいたようですが、上記の手紙の雰囲気を見ると、どうやら島津斉彬自身が彼女を気に入ったようで・・・で、その一が斉彬の養女となって、その名を篤姫に改名するのです。
ちなみに例の広大院さんの実名が篤姫・・・まさに、そこにあやかって改名したんですね~
で、この嫁候補の選定は嘉永四年(1851年)の暮れか、翌五年の春には決まっていたのです。
ところが、ちょうどその頃、江戸からの報告で
「どうやら、幕府の閣議では正室ではなく、側室として迎えるつもりらしい」
という噂が漏れ聞こえて来たのです。
これに島津斉彬が腹を立て、しばらく結婚話がストップしてしまいます。
さらにその翌年=嘉永五年(1852年)の10月に、参勤した斉彬が大奥の上臈御年寄(じょうろうおとしより=女中の最高位)の姉小路(あねのこうじ)に連絡を取ってみると、
「実子ならともかく、分家からの養女なんやから側室でしょ」
とキッパリ。。。
そこで斉彬は、養女という事を伏せて、実子として届け出る事に・・・
すると今度、またまた姉小路からの知らせで、
「前左大臣の二条斉敬(にじょうなりゆき)が自分の娘を嫁がせようと阿部正弘に何回も申し込んでるで」
と聞き、」少々慌てますが、どうやら、その縁組は幕府側が断ったようで、それ以上の進展はなく、一安心・・・
「よっしゃ!コレで決まりや!」
と思った嘉永六年(1853年)夏・・・ペリーが黒船乗って来ちゃいます。
しかも、その19日後の嘉永六年(1853年)6月22日に第12代将軍の徳川家慶(いえよし)が亡くなって、急きょ、息子の家定が第13代将軍に就任。。。
いや、もう結婚話どころやおまへんがな(><)
さらに翌・安政元年(1854年)の正月に再びペリーは来るし(2月3日参照>>)、前後してロシアも来てるし(10月14日参照>>)、御所で火災が発生するし、
ゴタゴタの中で、なかなか話が進まない状況が続きましたが、安政二年(1855年)の秋になって、ようやく話が進むに見えました。
とことが、
そんなこんなの安政二年(1855年)10月2日の安政の大地震(10月2日参照>>)で、またもやストップ。。。
こうして色々な事が重なりつつも・・・ようやく落ち着いた安政三年(1856年)12月18日に、篤姫入輿の運びとなったわけです。
斉彬は、この1ヶ月チョイ前の日付で国許に送った手紙で、
「大手違い」
と書いており、やはり家定と篤姫の結婚は、本来なら、もっと早い時期に行われていたであろう事がうかがえる内容となっています。
とりあえず、無事結婚で良かった良かった。
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