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2024年12月11日 (水)

斎藤道三の美濃取り最終段階~相羽城&揖斐城の戦い

 

天文十六年(1547年)12月11日、斎藤道三が長屋景興の相羽城を攻め、景興は嫡子とともに討死しました。

・・・・・・・

兄弟一族による後継者争いを制して、天文四年(1535年)に正式に美濃(みの=岐阜県南部)守護(しゅご=幕府公認の県知事みたいな?)となった土岐頼芸(ときよりのり)が、

その後に対立した重臣=斎藤道三 (さいとうどうさん)によって尾張(おわり=愛知県西部)追放された事から、頼芸の味方についた織田信秀(おだのぶひで)と道三の戦いが激しくなる中、
  ●【天文篠脇城の戦い】参照>>
  ●【井ノ口の戦い】参照>>

天文十六年(1547年)9月に加納口の戦い(9月22日参照>>)手痛い敗北を喰らった織田信秀は、その2か月後の11月末に道三に味方する長瀬城(ながせじょう=同揖斐郡)鷹司政光(たかつかさまさみつ)を攻め、鷹司を滅亡させたのです。

ここまで先週ご紹介→くわしくは12月4日のページで>>

・‥…━━━☆

先の9月の加納口で勝利した勢いに乗じて大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市郭町)を攻めたものの、織田信秀の到来に矛を収めていた斎藤道三。。。

一方、そんな信秀も重臣の坂井大膳(さかいだいぜん)の怪しい動きを警戒し、急きょ古渡城(ふるわたりじょう=愛知県名古屋市中区)への帰還を余儀なくされました。
(この時は話し合いのうえ、事なきを得ています)

Saitoudousan600 しかし当然・・・あの斎藤道三が味方の鷹司を倒されて黙っているワケありません。

そう・・・その鷹司と同じく西美濃に展開しながら、道三にはなびかなかった揖斐城(いびじょう=岐阜県揖斐郡)揖斐光親(いびみつちか)相羽城(あいばじょう=同揖斐郡)長屋景興(ながやかげおき)です。

もともと、この前年の4月に、1度、長屋景興の相羽城を攻めたものの、景興の巧みな抵抗に遭い、城を落とせずに撤退していた事もあり、

満を持して戦闘態勢を整えた道三は、天文十六年(1547年)12月11日相羽城を攻めたのです。

道三にとっては満を持して…だったかも知れませんが、攻められた長屋景興としては、まったくもって不意を突かれた形だったようで、

何とか少ない兵で以って勇戦するも力及ばず・・・嫡子(ちゃくし=後継者)長屋景直(かげなお)をはじめとする31騎とともに、景興は壮絶な討死を遂げたのでした。

この時、景興の次男&三男と景直の息子が領内の民家にかくまわれたほか、未だ幼かった四男の長屋景重(かげしげ)が家臣に救出されて親戚の長屋道重(みちしげ)に預けられて難を逃れてます。

ちなみに
この四男の長屋景重は、
その後、板取(いたどり=現在の岐阜県関市)長屋家を継ぎ、その息子(つまり長屋景興の孫)金森長近(かなもりながちか)の養子となって豊臣秀吉(とよとみひでよし)飛騨(ひだ=岐阜県北部)攻略に一役買う事になります。
(飛騨攻略は8月10日参照>>…記事内に登場する金森可重が長屋景興さんの孫です)

こうして相羽城をおとした道三は、その勢いのまま揖斐光親の揖斐城を攻めます。

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揖斐城の戦い・要図↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>

実は、この揖斐城の揖斐光親さんの父は土岐政房(まさふさ)・・・つまり土岐頼芸の弟なんです。

政房には、彼ら=頼芸・光親兄弟以外にも5~6人の男子がいたので、五男だった光親が子供がいなかった揖斐城主の揖斐基信(もとのぶ)養子となって揖斐家を継いでいたのです。

なので、完全に親頼芸派・・・美濃守護土岐氏の勢力挽回に最も尽くした人で、なんなら長井新九郎規秀(ながいしんくろうのりひで)を名乗っていた斎藤道三が、いつの間にやら守護代(しゅごだい=副知事)家の斎藤を名乗り始めた頃からすでに睨みを効かせ、警戒&対立を露わにしていた人なのです。

…という事は、もちろん一方の道三も警戒している人なわけで・・・

こうして揖斐城をターゲットにした道三は、まずは城下にある大興寺(たいこうじ=岐阜県揖斐郡揖斐川町)長存寺(ちょうそんじ=岐阜県揖斐郡揖斐川町)火を放って気勢を挙げて激しく攻め立てます。

剛の者&戦上手で知られた光親は、持つ兵がかなりの少数にも関わらず奮戦しますが、所詮は多勢に無勢・・・

何とか脱出すると古橋城(ふるはしじょう=住所不明:知ってる方教えて(@人@))にて態勢を整えて反撃しようとしますが、

残念ながら古橋城が堅固な城ではなく砦に近いような無防備な城であった事から籠城を諦めて逃走・・・

後に、斎藤道三の息子である斎藤義龍(よしたつ=高政とも)従ったとか、従わなかったとか(ほどなく死去した説もあり)

このあと、ご存知のように翌・天文十七年(1548年)に斎藤道三と織田信秀の和睦が成立し、さらに翌年の天文十八年(1549年)には信秀息子の信長(のぶなが)道三の娘(貴蝶・濃姫)(2月24日参照>>)結婚が成立した事で、後ろ盾を失った土岐頼芸でしたが、

それでも大桑城(おおがじょう=岐阜県山県市)に居座っていた土岐頼芸を、道三がヨシとしていなかった中で、天文二十一年(1552年)の11月に大桑城の櫓の不審火に混乱した頼芸は大桑城を離れ
(道三が攻めた説もあり)

その後は、縁戚の六角氏(ろっかくし=妹の嫁ぎ先)や弟の土岐治頼(はるより)のいる常陸(ひたち=茨城県)へ行ったり・・・と各地を点々とした後、

甲斐(かい=山梨県)武田(たけだ)にいたところを、あの信長の甲州征伐(こうしゅうせいばつ)(3月11日参照>>)の時に発見保護され、

かつて家臣だった(8月1日参照>>)稲葉一鉄(いなばいってつ)の尽力で美濃に戻る事ができました。

途中で失明してしまいますが、ギリ、信長より長生きしてます(12月4日参照>>)

ーーーここからは蛇足の独り言ーーー

なので個人的には、
あの明智光秀(あけちみつひで)
♪ときは 今…♪
の歌を(5月28日参照>>)
「土岐は今」
と解釈して、本能寺の変(6月2日参照>>)動機が「土岐氏の再興にあった」とする説は、ちょっと違う気がするんですよね~

だって、落ちぶれた&失明したとは言え、土岐氏の当主が、まだ生きてるんですもん。。。
しかも、本能寺の時には行方不明ではなく稲葉一鉄に庇護されてるんですもんね。

「土岐は今」なら、ノブ抹殺より、まず土岐頼芸に対してリアクション起こさなきゃ!ですよね?

まぁ、ドサクサで色々とエピソードが抹消されて、ややこしくなってるのかも知れませんが。。。
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