四条天皇の崩御~後継者を巡る京洛政変
仁治三年(1242年)1月9日、第87代=四条天皇が崩御・・・その後継を巡って京洛政変(けいらくせいへん)が起こりました。
・・・・・・・
第86代=後堀河天皇(ごほりかわてんのう)の第1皇子として生まれた四条天皇(しじょうてんのう)は、わずか2歳で後を継いで第87代天皇として即位した天皇です。
即位直後は、父が後堀河上皇となって院政を敷いていましたが(なんせ2歳なんで…)、即位の翌年に母が、さらにその翌年に父もが亡くなった事で、
やむなく外祖父の九条道家(くじょうみちいえ)や、その舅の西園寺公経(さいおんじきんつね)が事実上の政務をこなしていたのですが、
即位から10年後の仁治三年(1242年)1月9日、四条天皇は、わずか12歳で崩御してしまうのです。
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その死因は3日前に転倒した事による脳挫傷だったとされます。
(正式な記録は無し…日記等に記述)
…というのも、四条天皇はかなりの悪戯好きで暴れん坊・・・同年配(天皇の3歳上)で言わばご学友として接していた九条忠家(ただいえ=関白教実の息子で道家の養子)とともに騒がしい遊びをしたり、ちょっと危ない遊びをするのが大好きで、
亡くなる3日前にも、御所の廊下に滑りやすい石を並べて
「近臣や女房たちを転ばせてやろうドッキリ」
を決行しようとしていたものの、誤って自分がその石で転んでしまい、頭を強く打ったのだとか・・・
「んな、アホな!」
って、一瞬思いますが、上記の通り、天皇はまだ12歳・・・しかも、この時代ですから数え年の12歳。
西暦で計算した満年齢なら10歳そこそこですから、現在なら小学四年生か五年生です。
しかも男の子なら、そりゃ~暴れたい盛りですがな。。。
血気盛んな男子諸君なら、そんな経験も1度や2度思い当たるはず。。。
とはいえ、そのために、この四条天皇の治世で天皇自身が何かをされた記録というのは、亡くなる1年前の仁治二年(1241年)に、九条道家の孫の九条彦子(ひろこ・げんし)を女御(にょうご=皇后・中宮に次ぐ位)に迎えた…くらいしか無いのですが、
そう・・・
未だ子供を成さないままで天皇様がお隠れになった事で、このあとに朝廷&鎌倉幕府の間で大きなモメ事が生じてしまう事になるのです。
そもそもは…(話長いですm(_ _)m)、
あの後白河天皇(ごしらかわてんのう=第77代)(10月26日参照>>)のもとで全盛を誇った平清盛(たいらのきよもり)が、自身の嫁さんである平時子(ときこ)の妹=平滋子(しげこ)(7月8日参照>>)が産んだ高倉天皇(たかくらてんのう=第80代・後白河の第7皇子)を即位させ、
そこに自身の娘の平徳子(とくこ=建礼門院)を入内(じゅだい=天皇の後宮に入る事)させ(2月10日参照>>)、政権のトップに立ち、高倉天皇と徳子の間に生まれた(つまり清盛の孫)安徳天皇(あんとくてんのう=第81代)を、わずか3歳で即位させた頃、
その状況に反発した高倉天皇の兄=以仁王(もちひとおう)を葬り去った(5月26日参照>>)事や、
その後に、その平家を安徳天皇もろとも都落ちさせた木曽義仲(きそよしなか=源義仲)が、次の天皇に推した北陸宮(ほくろくのみや=以仁王の皇子)を跳ね除けて失脚(行方不明…後に源頼朝が保護)させた事で(1月11日参照>>)、
義仲亡き後の源平合戦で安徳天皇が壇ノ浦で入水(3月24日参照>>)してしまった後は、その皇位継承が、すでにヤバイ段階に入っていたわけです。
なんせ高倉天皇はすでに亡く(21歳で崩御)、その第1皇子である安徳天皇が、わずか7歳で入水自殺ですから・・・
そんな安徳天皇の弟=高倉天皇の皇子である人物は、
藤原殖子(ふじわらのしょくし・たねこ==父は藤原信隆)が産んだ当時6歳の守貞親王(もりさだしんのう)と、
同じく殖子が産んだ当時4歳の尊成親王(たかひらしんのう)。。。
その二人の間に内裏(だいり=天皇の住まい)の女房(少将局?)を母に持つ当時5歳の惟明親王(これあきしんのう)。
もう、この3人の誰かしかいない中で、やむなく次期天皇は1番年下の皇子である尊成親王に決まるのです。
これには、年長の二人・・・
守貞親王は安徳天皇とともに平家の都落ちに同行していた事、
惟明親王は母の身分が低く後ろ盾がいなかった事、
などなどが禍した物と思われますが・・・
とにもかくにも、
ここで後継に決まった尊成親王が、平家が西海に持ち去った神器が無いまま元暦元年(1184年)に即位する第82代=後鳥羽天皇(ごとばてんのう)です。
そして、ご存知のように~
この後鳥羽天皇が即位から30数年後の承久三年(1221年)、鎌倉幕府相手にあの承久の乱(じょうきゅうのらん)(6月23日参照>>)をやっちゃうワケです。
即位直後は、その年齢の幼さから、天皇にもしもの事があった時のスペアとみなされていた惟明親王も、後鳥羽天皇が自身の皇子である土御門天皇(つちみがどてんのう=第83代)に譲位した時点で、その役目を終えて出家してしまっていたので、
ただでさえ、皇位継承者が少ない中で起こった承久の乱で、負けた側の後鳥羽天皇(当時は上皇)系列の皆々が、全員、配流や廃帝となって皇位継承者から外れる事になってしまったわけです。
★配流&廃帝となった方々のその後
●後鳥羽上皇>>
●土御門天皇>>
●順徳天皇>>
●仲恭天皇>>
やむなく守貞親王が天皇への在位経歴のないまま治天の君に立てられた後、その皇子が後堀河天皇として即位・・・今回の四条天皇は、その後堀河天皇のたった一人の(第2皇子は死産)男の子ですから。。。
承久の乱をおっぱじめた後鳥羽天皇系を排除するための別系統のたった一人が亡くなってしまった。。。
鎌倉幕府は鎌倉幕府で2代執権の北条義時(ほうじょうよしとき=北条政子の弟)はすでに亡く(6月13日参照>>)、その息子の北条泰時(やすとき)の時代。。。
そんな幕府が仰ぐ将軍でさえ、初代の源頼朝(みなもとのよりとも)の直系は絶え(1月27日参照>>)、
公家出身の将軍=九条頼経(よりざね)が第4代将軍となっていたわけですが(3月9日参照>>)、
この九条頼経の父が、あの四条天皇に代って政務をこなしていた九条道家・・・関白を退いたとはいえ、未だ発言力を持つ九条道家は、朝廷の意見として順徳天皇(じゅんとくてんのう=第84代)の皇子である忠成王(ただなりおう)を次期天皇に推します。
一方、鎌倉幕府では北条泰時らが協議の結果、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市)の神託(しんたく=神のお告げ)を得たとして、土御門天皇の皇子=邦仁王(くにひとおう)を次期天皇に決めるのです。
まぁ、神託とか言っちゃってますが、おそらくは気持ち・・・
上記にリンクした天皇様たちのページでお話させていただいたように、
順徳天皇はノリノリで父に従って承久の乱に参加した一方で、土御門天皇は乱には消極的でほぼスルー・・・
なので乱後の処置である配流に関しても幕府側が
「その必要は無い」
と言ったのに、土御門天皇自身が
「父や弟が配流になるのに自分だけが何もしないわけには…」
と自ら望んで土佐(とさ=高知県)に行った穏やかな性格の人だったわけですから。。。
しかも土御門天皇はすでに崩御されているものの、順徳天皇はまだご存命・・・
幕府の気持ちとしては、他に無いなら、せめて乱に消極的だった穏やかな天皇の皇子が良いわけで。。。
こうして、京都では「次は忠成王」の話が持ち上がっている中で、幕府では邦仁王に決まった事を朝廷に伝えるため、北条泰時は安達義景(あだちよしかげ)を使者として派遣します。
この時、一旦は出発したものの、心配になって確認に戻って来た義景が、
「もし、(京都にて)すでに忠成王が即位してしもてたら、どないしましょう?」
と泰時に訪ねると、
「支障ない!その時は(忠成王を)皇位から降ろしたらえぇ」
と、ズバッと言ってのけたとか。。。
かつて承久の乱の時、相手が天皇家という事で不安になった泰時が、
「もし、後鳥羽上皇が先頭切って出陣して来たら、どないしましょう?」
と聞いた時、父=義時は、
「仕方がない…その時は武器を捨てて降伏せよ」
と言ったという逸話が残っていますが、
父=義時から息子=泰時に移った、
このわずかの間に朝廷と幕府の力関係に変化があった事がうかがえますね~
とにもかくにも、
こうして幕府の意のもと、第88代天皇として即位するのが邦仁王=後嵯峨天皇(ごさがてんのう)です。
ま、この方が、後の天皇兄弟系統交代劇からの南北朝への火種を作っちゃう事になるんですが、そのお話は【御嵯峨天皇・崩御】のページ>>で
(後嵯峨天皇が即位するまでの話の内容がカブッてますがご了承くださいm(_ _)m)
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