譲位する?しない?~皇位を巡る三条天皇VS藤原道長の攻防
長和五年(1016年)1月29日、かねてより眼病を患っていた第67代=三条天皇が譲位しました。
・・・・・・・
亡き父や兄に代わって朝廷での重職を担うようになって来た藤原道長(ふじわらのみちなが)は、長保元年(999年)に長女の藤原彰子(あきこ・しょうし)を一条天皇(いちじょうてんのう=第66代・986年に即位)に入内(じゅだい=皇后・中宮・女御になる女性が正式に内裏に入る事)させた(11月1日参照>>)のを皮切りに、
天皇家に次々と娘をを嫁がせて天皇の外戚(がいせき=母方の親戚)となって力をつけ、朝廷内での♪To the 1番上~を確保したいと思っていたわけですが、、、
そんな中、寛弘八年(1011年)に病を得た一条天皇に代って三条天皇(さんじょうてんのう=第67代)が即位するのですが、どうも以前から、この三条天皇と道長の関係がよろしくない。。。(4月10日参照>>)
この三条天皇も一条天皇同様に、かつての天皇様と道長の姉との間に生まれた皇子で、この即位の翌年には次女の藤原妍子(けんし・きよこ)を三条天皇のもとへ入内させて立后宣言(皇后になる宣言)をしてますので、
姻戚関係に於いては、かなり近い関係・・・とは言え、事、人間関係に於いては「反りが合わない」「肌が合わない」てな感じの雰囲気は、容易には取り除けない物でして・・・
ただ、上記の系図をご覧いただくとお解りの通り、ここらあたりの皇位継承順は兄弟系列の交代々々な雰囲気。。。
63代の冷泉天皇(れいぜいてんのう)の次は、
その弟の円融天皇(えんゆうてんのう)、
その次は冷泉天皇の皇子の花山天皇(かざんてんのう)で、
その次が円融天皇の皇子である一条天皇だったわけです。
…で、次期天皇である東宮(とうぐう=皇太子)を立てるのは、その天皇が即位する時ですから、当然、一条天皇が即位する際に冷泉天皇の皇子の三条天皇が東宮に立てられていたので、今回の一条天皇が譲位して三条天皇即位となるわけですが、
問題は即位と同時に決めとかなきゃいけない次の東宮・・・
それは当然(円融天皇の皇子は一条天皇だけなので)一条天皇の皇子から選ぶわけですが、
♪To the 1番上~に行きたい道長としては、当然、自身の長女=彰子が産んだ敦成(あつひら)クンか敦良(あつなが)クンが良いのだけれど、この時点で二人とも、まだ3~4歳の幼児だし、そもそもこの二人は一条天皇の第2皇子と第3皇子。。。
これまでも何度かブログで書かせていただいているように、一条天皇には彰子が入内する前に、道長の兄である藤原道隆(みちたか)の娘の藤原定子(さだこ・ていし)が入内しており、敦康親王(あつやすしんのう)という第1皇子をもうけていたわけです。
しかも一条天皇は定子にゾッコン。。。
しかし、道隆が亡くなり、その後を継いだ息子の藤原伊周(これちか)が失脚し、さらに定子も他界してしまって(8月9日参照>>) 、
この時点で第1皇子の敦康親王の後ろ盾は、ほぼゼロな状態。
それでも亡き定子に代って敦康親王を我が子のように手元で育てていた彰子は、むしろ
「敦康親王が皇位を継ぐべき」
と考えていたようですが、
そこを道長は、強引と言われようとも彰子の子である敦成を東宮に据える事希望し、そして成功させたのです。
つまり、この三条天皇の即位の時に次期天皇候補である東宮になったのは敦成親王=道長の孫という事に。。。
…で、こうなった以上は、何とか三条天皇にさっさと退位していただいて、自身の孫を皇位につけたい道長ですが、
さすがに、またぞろ強引を貫き過ぎるのも、周囲の反感を買うわけで、今しばらくは大人しく・・・
ところが・・・そんな中、即位から3年後の長和三年(1014年)、三条天皇は眼病を患うのです。
道長の日記である『御堂関白記(みどうかんぱくき)』↑や、
藤原実資(さねすけ)の『小右記(しょうゆうき ・ おうき)』等を統合して、ここらあたりの流れを見てみると、、、
眼病を患った三条天皇の首の両側に物の怪のような鳥が見えるとか噂される中、
この長和三年の2月には、内裏(だいり=天皇の住まい)で火災が発生し、
「これは、天皇に徳が無いせいでは?」
と道長が言いはじめるのです。
そう・・・これらのゴタゴタをキッカケに、この頃からいよいよ三条天皇譲位へ、道長が動き始めたのです。
長和四年(1015年)に入ってからは、三条天皇は度々薬を服用するようになり、天皇も不安になって道長に相談したりなんかするものの、
道長は、ハッキリとは返答せず、何を聞いても
「仰せの通りにされたら良いかと…」
とだけ答える放置プレイを実践。。。
結局のところ、
「早よ!譲位する~って言えや」
てな感じの道長の思惑に、三条天皇も周囲も気づきはじめます。
4月13日には、
「今日は、相変わらず目は不快やけど、気分はメッチャえぇ感じやわ」
という三条天皇の言葉を聞いた道長が、天皇の目の前であからさまに不快な態度を取ったのだとか。。。
9月には再建された新しい内裏に三条天皇が移りますが、もはや近臣の助けを得ないと移動できないような状態にまでなっていたようで、さすがの三条天皇も、道長云々関係なく、自分自身で
「譲位せなアカンなぁ」
と考えるようになって来ます。
その状況を受けてか?
この頃には、道長もハッキリと譲位を口にし、三条天皇に迫りはじめます。
10月に入って、しきりに譲位を勧める道長に対して、
「なら、次の東宮には誰を立てたら良いか?」
と三条天皇が聞くと、道長は、
「一条天皇の第3皇子である敦成親王(自分の孫)が良い」
と・・・
三条天皇の皇子である
「敦明親王(あつあきらしんのう)や敦儀親王(あつのりしんのう)は天皇の器ではない」
「敦良親王には天皇になる資質がある」
と、順番もクソも無いけんもほろろな回答に、
ここのところの体調の崩れっぷりに、自分自身でも譲位の決意を固めていた三条天皇も、さすがにこの道長の言葉には憤慨し、
「譲位なんか、せーへんわ」
と、もうしばらく反発してみる事に。。。
そんなこんなの長和四年(1015年)10月21日、道長を准摂政(せっしょう=幼天皇に代って政務を行う人)に任ずるとの宣旨(せんじ=天皇の命を伝達する文書)が下ります。
そう・・・三条天皇の眼病が、ますます悪化して来て、政務をこなすのも難しくなって来ていたのです。
やがて12月8日、三条天皇は真夜中に月を眺めながら一首の歌を詠まれます。
♪心にも あらでうき世に ながらへば
恋しかるべき 夜半の月かな ♪
「(病気なので…)もう長くない人生やと思うけど、もし長生きできたら、その時は、今夜ここで眺めた月を恋しく思い出す事やろな~」
『百人一首』の68番に納められている、あの歌ですね。。。
どうやら、三条天皇は、今度こそ、ほんとの本当に譲位を決意なさったようです。
なんが、この時の背景をを知って歌を見直してみると、なんだか悲しいですね~
ただし、三条天皇には譲位の条件がありました。
それは、「東宮を自身の第1皇子である敦明親王を立てる」事。。。
どうやら、今回ばかりは道長も折れた模様・・・12月15日の『小右記』や翌16日の別の記録を見る限り、道長の反対もなく、東宮はすんなり敦明親王に決まりました。
心の内はともかく、ここに至っては道長も大人しく従ったようですね。
かくして年が明けた長和五年(1016年)1月29日、三条天皇は譲位します。
この日、先代の譲位を受けて、道長の邸宅である土御門殿(つちみかどどの=京都府京都市上京区)で践祚(せんそ=皇位継承)した敦成親王は第68代後一条天皇(ごいちじょうてんのう)として即位します。
この時、後一条天皇はわずか9歳。
皇太子となった敦明親王は23歳。
幼き天皇を支えるべく、当然、道長は摂政に・・・
即位の儀が行われた2月7日には、道長の喜びも頂点だった事でしょう。。。
皇太子の人選を除いては(><)
ま、結局は、この次の天皇は敦明親王ではなく、後一条天皇の弟の敦良親王=またぞろ道長の孫になるわけですが、
その経緯については、
また別の日のお話という事で。。。m(_ _)m
★参考ページ(内容がカブッてる箇所アリです)
●一家立三后~藤原道長の♪望月の歌>>
●二人の天皇の母となった道長の娘~藤原彰子>>
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