宇都宮から結城を守る~水谷正村の久下田城の戦い
天文十五年(1546年)1月23日、宇都宮配下の武田治郎が水谷正村の久下田城を攻めました。
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剃髪後の蟠龍斎(はんりゅうさい)の名でも知られる水谷正村(みずのやまさむら)は、下総(しもうさ=千葉北部・茨城・埼玉周辺)に根を張る結城(ゆうき)氏の家臣であった父のもとに生まれ、
自身も結城政勝(ゆうきまさかつ)に仕え、結城四天王の1人に数えられる猛将です。
はじめは、そんな結城氏の配下として下館城(しもだてじょう=茨城県筑西市)の城主を務めていましたが、
下野(しもつけ=栃木・群馬県の一部)の宇都宮(うつのみや)氏との関係が微妙になって来た?事を受けて(天文十三年頃?)、
より国境に近い地に、自ら久下田城(くげたじょう=茨城県筑西市樋口)を構築して城主となり、地元の木綿織の物流に力を入れるなど城下の発展にも腕を振るっておりました。
もちろん、そんな正村を信頼する主君=結城政勝は、天文十四年(1545年)1月28日には、自身の娘を正村に嫁がせています。
ところが、その結婚一周年記念になろうかという天文十五年(1546年)1月17日、
宇都宮配下の武田治郎 (たけだじろう)なる武将が、来たる23日に久下田城を攻めるべく彼の地を発ったとの情報を得ます。
これを即座に結城政勝に伝えると、受けた政勝も即座に300騎の兵を援軍として派遣します。
主君の対応の速さにより、援軍を交えた軍議をしっかりと得る事が出来た正村は…
(『水谷蟠龍記』によれば…)
まずは、
北の大木戸に騎馬50騎を含む雑兵数百名で陣取らせ、一戦おっぱじめた時に敵が強くかかって来た場合は、さりげなく大手まで退き下がるよう命じておきます。
さらに、正村自ら城下に建立し、手厚く保護していた芳全寺(ほうぜんじ=栃木県真岡市)内に、
約70騎の騎馬と6~700の雑兵と武装する芳全衆徒を伏せ置き、
敵が池塘(ちとう=沼地)を越えて来襲して来たら、芳全衆が寺問先へと押し寄せて背後を突くように命じておきます。
また、結城からの加勢は南と東の木戸の所に各100騎、正村が構える背後に約100騎、
残りは城内に留めて、ピンチになった場所へ、いつでも援護に迎えるような体制を造っておきます。
かくして天文十五年(1546年)1月23日丑の刻(午前2時頃)、水谷正村側は、すべての準備を整えました。
果たして、その約4時間後の卯の刻(午前6時頃)、空が白々と明けるとともに、武田治郎率いる宇都宮勢が久下田城へと押し寄せたのです。
そして始まる最初の撃ち合い・・・
案の定、撃ち合いに押し勝った宇都宮勢は意気揚々と追撃し、芳全寺の池を抜け、隣接する城へと向かって来ます。
そこで、勝ちに乗じて押し寄せた所を、作戦通りに大手が退き、タイミングを見計らって寺内に伏せていた兵が一斉に敵の背後を突いたのです。
不意打ちに混乱した宇都宮勢は慌てて逃げようとしますが、なんせ初めての場所・・・
周囲の池や沼に落ちる者が続出する中、何とか逃げ出せても、結局は囲んでいる結城勢に撃たれるだけでした。
やがて、ついに武田治郎も討死し、残された兵も追い回される中、
何とか逃げた兵も、もはや旗も刀もほっぽり出して、文字通り命からがらの帰還となったのでした。
結局、宇都宮勢は上下合わせて800余が討死・・・
水谷&結城勢は、28騎と雑兵81人が犠牲になりましたが、名のある武将が首を取られる事も無く・・・
今回の久下田城の戦いは、見事、水谷正村らの勝利に終わったのでした。
この戦いの後、主君の結城政勝が永禄二年(1559年)に亡くなり、思う所があったのか?永禄十二年(1569年)に弟の水谷勝俊(かつとし)に家督を譲って、自らは出家して蟠龍斎を名乗るようになるのですが。。。
ご存知のように、ここらあたりから関東は北条の一強へと進んでいくため、
●天文十五年(1546年)【河越夜戦】>>
●天文二十三年(1554年)【甲相駿三国同盟】>>
関東の諸将は、北条への対抗策を模索し、くっついたり離れたりで混とんとした時代を迎えるわけですが。。。
そんな中で、晩年になっても衰えない水谷さんのお話は、2023年4月1日の【田野城の戦い】>>でどうぞm(_ _)m
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