将軍職を巡って足利義稙VS足利義澄~水茎岡山城の戦いと九里員秀の最期
永正七年(1510年)2月26日、足利義澄の拠る九里員秀の水茎岡山城を、足利義稙の命を受けた細川高国&大内義興らが攻撃しました。
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明応二年(1493年)4月、それまでの第10代室町幕府将軍=足利義稙(あしかがよしたね=当時は義材)の留守中に明応の政変(めいおうのせいへん)なるクーデターで以って、将軍を第11代足利義澄(よしずみ)に交代させた管領(かんれい=将軍の補佐役)の細川政元(ほそかわまさもと)(4月22日参照>>)・・・
しかし、政変当時は12~3歳で、政元の傀儡(かいらい=操り人形)的将軍だった義澄も、このわずかの成長期で以って一人前になっていき、徐々に政元との間に亀裂が生じ始める一方で、
実子がいない政元の養子となった
公家の九条政基(くじょうまさもと)の息子=細川澄之(すみゆき)、
分家の阿波(あわ=徳島県)細川家の細川澄元(すみもと)、
同じく分家の野洲(やす)細川家からの細川高国(たかくに)、
の3人の養子の養子の間で、早くも政元の後継者争いが始まり、
永正四年(1507年)6月に、政元が澄之推しの香西元長(こうざいもとなが)らに暗殺され(6月23日参照>>)、約1ヶ月後の8月1日には、その澄之を排除して、澄元が実権を握りました(8月1日参照>>)。
しかし、それも長くは続きません。
翌永正五年(1508年)に、かつて政元に追放された前将軍の足利義稙(かつての義材=当時は義尹)が、周防(すおう=山口県)の大物=大内義興(おおうちよしおき)を味方につけて上京・・・しかも、もう一人の養子の細川高国が、彼らを支持したのです(12月25日参照>>)。
これを受けた足利義澄・・・
多少のギクシャクがあったとは言え、なんだかんだで細川政元は自分を将軍に推してくれた人なわけで、、、
しかし、その政元も今は亡く、養子同士の後継者争いが繰り広げられてる中、追放された足利義稙が大内連れて戻ってきて、しかもそれを後継者争い中の細川高国が推してる・・・
このピンチに策を練る義澄は、永正五年(1508年)の4月16日、この時、わずか300人の従者しか手元にいなかったため、まずは京都を出て坂本(さかもと=滋賀県大津市)へ向かい、そこから船で以って琵琶湖の東岸へと渡り、
長命寺(ちょうめいじ=滋賀県近江八幡市)に入って出家・・・そして岡山城(おかやまじょう=滋賀県近江八幡市:水茎岡山城)の九里員秀(くのりかずひで)を頼ったのです。
九里員秀は、近江源氏(おうみげんじ)の流れを汲む佐々木六角(ささきろっかく)氏の重臣であった伊庭(いば)氏(3月24日参照>>)の被官(ひかん=家臣)。。。義澄にとっては頼れる仲間の1人でした。
しかし、そうなると当然、義稙側から岡山城は狙われます。
足利義澄が都を去った事を受けて入京した足利義稙は、即座に幕府を掌握・・・
義澄を討つべく総大将となった大内義興が、3万余の兵を率いて動き始め、その先陣が草津(くさつ=滋賀県草津市)に着陣したのは義澄が都落ちしてから約1年半後の永正六年(1509年)10月2日の事でした。
とは言え、この時点では、義澄側には、まだ強い味方が・・・
そう・・・
かつて足利義稙将軍現役時代に、その将軍の力を以ってしても、単に「近江追放」にしかできなかった六角高頼(ろっかくたかより)(12月13日参照>>)です。
父の隠居を受けた息子の六角氏綱(うじつな)は、配下の諸軍のうち、夜襲に手慣れた約3千人を選抜し、
草津から守山(もりやま=滋賀県守山市)付近の森に忍ばせ、合図とともに一斉に義稙の陣に火矢を射掛けました。
不意の夜襲を受けた義稙勢はやむなく撤退・・・これを受けて義澄は岡山城に留まりますが、ここまで供にいた細川澄元は国許(くにもと)の阿波に戻る事になります。
しかし、もちろん義稙とて、このままではいられず、年が明けると、すぐに、細川高国に大内義興、さらに京極高清(きょうごくたかきよ)ら諸将に義澄討伐を呼びかけます。
これに応じる配下の諸将たち・・・
かくして永正七年(1510年)2月26日、義稙の命を受けた軍勢が岡山城を攻めるのです。
しかし、今回も岡山城は死守されます。
援軍に駆けつけた伊庭勢や九里の城兵の善戦により、義稙側は城を落とせなかったばかりか、隊の一翼を担っていた大将の1人である富田紹登(とだつぐずみ)が討死し、大敗走する事になってしまったのです。
あまりの負けっぷりに責任を感じた細川高国は、一時は遁世(とんせい=出家して俗世の表舞台を去る事)を考えたものの、周囲の説得によって思いとどまったとか・・・(『拾芥記』による)
九里らが城を死守してくれたおかげで、またまた足利義澄はこの岡山城に留まる事になり、翌永正八年(1511年)の3月5日には、義澄の側室の1人が、ここ岡山城にて男児を出産します。
この子が後の足利義晴(よしはる)=後に第12代将軍となる人です。
しかし足利義澄はちょっぴり不安・・・
というのも、九里は頑張ってくれてるし、現に城も落ちてはいないものの、数的には敵の方が圧倒的に有利。
その事もあって、徐々に味方の中で義稙派に寝返る者が出始める中、ここに来て六角家臣たちもが敵に靡き出した事から、
不安になった足利義澄は、赤松義村(あかまつよしむら)(11月12日参照>>)を頼って播磨(はりま=兵庫県南西部)へと移ります。
この頃、義澄の別の側室が男児を出産しますが、安全を考えて、この子は阿波にいる細川澄元の下に預けます。
この子が足利義維(よしつな)=後に、細川晴元(はるもと=澄元の息子)や三好元長(みよしもとなが=三好長慶の父)らとともに上洛し堺公方(さかいくぼう)(3月1日参照>>)と呼ばれる事になる人です。
こうして播磨に移った義澄は、細川澄元や赤松義村の援護を受けて、京都を奪回せんと意気込んで再び岡山城に舞い戻って来ますが、残念ながら8月14日に、その岡山城にて死去・・・
その10日後にぶつかった船岡山(ふなおかやま=京都府京都市北区)の戦い(8月24日参照>>)で細川澄元も負けて阿波に帰ってしまうのです。
この勝利に勢いづく義稙勢・・・翌9月には、チャッカリと義稙派に寝返った六角定頼(さだより=高頼の息子)が、それを隠して九里員秀宅を訪問し、
「伊勢参りに行こうぜ!」
と誘います。
「ほな、まずは一献」
と邸宅にて歓迎の宴を開く九里員秀に対し、六角定頼は酔ったふりして膝にもたれかかってタヌキ寝入り・・・
(膝の上にねぇ~(^o^;))
真夜中の頃合いを見計らって、九里邸を囲むように潜んでいた約2千の兵が、鬨(とき)の声を挙げて攻めかかって来たところを、
「なんや!なんや!」
と驚いて目覚めたふりをしながら太刀を抜き、隣にいた(膝にもたれかかってるからなw)九里員秀を討ち取ったのです。
こうして近江を完全制覇したい六角氏としては、九里の岡山城が手に入った事になります。
(なんか…ズルい気が(><))
ま、結局は義稙に男児がいなかった事で、上記の通り義稙亡き後は義澄の息子の義晴が将軍職を継ぐ事になるのですが、その前後にも、かの細川の後継者争いやなんやかやがあるわけで・・・
そこらへんは前述の義稙さんのページ(12月25日参照>>)を見ていただくか、
●【腰水城の戦い】>>
●【等持院表の戦い】>>
など、ご覧いただければ幸いです。
★【戦国群雄割拠の年表】>>の
後半部分でもどうぞm(_ _)m
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