川中島真っ只中に謙信から信玄へ寝返る~北条高広の乱
弘治元年(1555年)2月13日、北条高広の乱で功績があった安田景元を上杉謙信が賞しました。
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天文二十二年(1553年)4月に、甲斐(かい=山梨県)から信濃(しなの=長野県)に侵攻して来た武田信玄(たけだしんげん)に奪われていた葛尾城(かつらおじょう=長野県埴科郡)を奪回すべく村上義清 (むらかみよしきよ)が起こした更級八幡(さらしなはちまん=長野県千曲市 )の戦い(4月22日参照>>)や、
それに続く布施(ふせ=長野県長野市)の戦い(9月1日参照>>)で敗れた小笠原長時(おがさわらながとき)らを支援する形で、
信玄と因縁の川中島(かわなかじま=長野県長野市)の戦いに突入する事になる越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん=当時が長尾景虎)。。。
(一般的に上記の更科八幡と布施の戦いを合わせて第一次川中島の戦いと呼ばれます)
しかし、その翌年=天文二十三年(1554年)の12月、上杉配下の北条高広(きたじょうたかひろ)が武田方に寝返り、謙信に反旗を翻したのです。
北条高広の北条氏は、もともとは鎌倉幕府政権時代に活躍した大江広元(おおえひろもと)の四男である大江季光(すえみつ)が、父の領地の一部である相模(さがみ=神奈川県)の毛利庄(もうりしょう=神奈川県厚木市付近)に居を構えて毛利季光(もうりすえみつ)を名乗った事に始まる、あの毛利氏の人。。。
「あの」と着けたのは、そう・・・
大江広元亡き後に乱に巻き込まれて季光が自刃し、一時は一族滅亡の危機に立たされながらも、その時に越後の南条荘(なんじょうしょう=新潟県柏崎市付近)にいて合戦に関わらなかった事でかろうじて難を逃れた季光の四男=毛利経光(つねみつ)が、
その南条と安芸吉田荘(あきよしだしょう=広島県安芸高田市)を安堵されて生き残り、これまた四男の毛利時親(ときちか)に吉田を継がせたわけですが、
その子孫が、やがて国人領主(こくじんりょうしゅ=地侍)となり、その中から戦国時代に頭角を現す人が登場し、それが毛利元就(もうりもとなり)だからなのですが、、、(6月10日参照>>)
その一方で上記のゴタゴタの時に南条を継いだ嫡男(ちゃくなん=後継ぎ)の毛利基親(もとちか)の血筋が、今回の高広さんのご先祖という事になります。
その基親の嫡男の毛利時元(ときもと)の時代に、柏崎北条(かしわざききたじょう)に北条城(きたじょうじょう=新潟県柏崎市)を構築し、以後、そこを拠点として越後北条(えちごきたじょう)氏を名乗りますが、
これまた時元息子の毛利経高(つねたか)の代の頃に安田城(やすだじょう=同柏崎市)を構築した事から、北条から分家独立したコチラ=安田城を拠点とする北条氏は安田氏を名乗るようになったのです。
イロイロややこしいですが、、、
戦国時代には、今回の北条高広の父であろうとされる北条高定(たかさだ)が早くに亡くなってしまった物と思われ、高広の養父となった安田氏の安田広春(やすだひろはる)が北条&安田の両城の城主を務めていた中で、その安田広春も亡くなってしまった事を受けて、北条城は北条高広が継ぎ、安田城は同じく広春養子の安田景元(かげもと)が継いでいたのです。
(↑ここらへん曖昧で異説アリです)
とにもかくにも、同族の北条高広&安田景元の両者は、ともに越後に根を張り、ともに長尾為景(ながおためかげ=謙信の父)に仕えて戦功を積んで来た武将だったわけですが、
冒頭に書いた通り、
ここに来て北条高広は武田信玄に通じ、上杉謙信と袂を分かつ事にしたわけです。
もちろん、これはかねてからの武田信玄による水面下での調略のたまものなのですが、
第一次川中島が終わった、このタイミングでの北条高広の寝返りを大いに喜んだ信玄は、12月5日、家臣の甘利信忠(あまりのぶただ=昌忠とも)を高広のもとへ遣わし、謙信の拠点である春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)攻略に向けての協議を開始したのです。
しかし、この段階で北条高広の動きに気づいたのが、上記の同族=安田景元です。
早速、謙信配下の与板城(よいたじょう=新潟県長岡市与板町)主=直江景綱(なおえかげつな=当時は実綱)に連絡。。。
北条高広の乱・位置関係図↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>
これを受けた直江景綱は、年が明けた弘治元年(1555年)1月14日、北条城攻撃の前線基地となる上条城(じょうじょうじょう=新潟県柏崎市大字黒滝字城)と琵琶島城(びわじまじょう=同柏崎市)に配下の兵を援軍として準備します。
これらの準備が整った後、謙信自身が率いる上杉軍が善根(ぜごん=柏崎市善根)に着陣。。。
その後、北条城を見渡せ、城内の動きを観察するのに絶好の場所であるこの善根から、謙信自ら指示を出し、全軍で以って北条城を囲んだのは2月初めの事でした。
窮地に立った高広は、密使を信玄の下に派遣して援軍を求めましたが、未だ雪深い越後に武田軍が現れる事はなかったのです。
援軍が望めなく孤立無援となってしまった北条高広は、やむなく降伏・・・結局、実際に決戦をする事無く謙信の軍門に下る事になってしまいました。
降伏に関しての日付の記載が無く、実際に北条高広が、いつ降伏を申し出たのかは不明なのですが、
弘治元年(1555年)2月13日の日付の書簡にて、上杉謙信が、今回の北条高広の乱における安田景元の戦功を賞する内容が見て取れる事から、この日までには終結したものと思われます。
・・・で、結果的に、第1次と第2次の川中島の間というややこしい時期に進言に通じてしまった北条高広の処分は、、、
というと、これがなんと!
謙信は高広の命を保証したばかりか、所領も安堵・・・まるで何事も無かったかのように接したのです。
これに謙信への篤い思いを蘇らせたのか?
その後の北条高広は、上杉配下として七手組のトップとして縦横無尽に活躍し、永禄三年(1560年)には北条氏康(ほうじょううじやす)に、絶賛攻められ中の里見義堯(さとみよしたか)との仲介役としても尽力し(1月20日参照>>)、
永禄六年(1563年)には厩橋城(まやばしじょう=群馬県前橋市:後の前橋城)の城主に抜擢されるほどの信頼を得る猛将となります。
さらに謙信亡き後の御館の乱(おたてのらん)では、謙信養子の上杉景勝(かげかつ)の御館入りを支援して勝利の一翼を担い(9月12日参照>>)、関東における対北条(ほうじょう)の最前線として睨みを効かす上杉一筋の人となるのです。
『太平記』が出典の
「情けは人の為ならず」
ではありますが(1月5日の真ん中部分参照>>)、
まさに、そのことわざ通りのような結果となった上杉謙信と北条高広の関係でしたね。
★川中島の戦い:関連ページ
- 第一次:更級八幡の戦い>>
天文二十二年(1553年)4月22日
:布施の戦い>>
天文二十二年(1553年)9月1日 - 第二次:犀川の戦い>>
弘治元年(1555年)7月19日~閏10月15日 - 第三次:上野原の戦い>>
弘治三年(1557年)8月29日~10月 - 第四次:八幡原の戦い>>
永禄四年(1561年)9月10日 - 第五次:塩崎の対陣>>
永禄七年(1564年)8月3日~10月1日
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