伝説に彩られた悲運の皇子~惟喬親王
寛平九年(897年)2月20日、第55代文徳天皇の第1皇子の惟喬親王が薨去されました。
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惟喬親王(これたかしんのう)は、平安遷都で有名な桓武天皇(かんむてんのう=第50代)の曾孫に当たる第55代文徳天皇(もんとくてんのう)の第1皇子ですから、つまりは平安時代の初めの方の親王様です。
子供ながらも優秀な人となりが見える事で、文徳天皇は惟喬親王を大いに可愛がり、
「将来は、是非とも皇太子(こうたいし=皇位継承者)に…」
と願っていたようですが、
その後に、6歳違いの第4皇子=惟仁親王(これひとしんのう)が生まれた事により、その運命が大きく変わります。
そうです。。。この二人はお母さんが違うのです。
惟喬親王の生母は紀静子(きのしずこ)という紀氏の人。
一方の惟仁親王の生母は藤原明子(ふじわらのあきらけいこ)。
もちろん紀氏も、元をただせば天皇の血筋を引くとされる立派な家系で貴族なわけですが、最も隆盛を誇ったのは奈良時代・・・
ご存知のように、平安に入ってからは藤原不比等(ふひと)(8月3日参照>>)の子孫である藤原・・・その中でも一人勝ちで生き残って来た藤原北家(ふじわらほっけ=不比等次男の藤原房前の系統)が圧倒的に強かったわけで。。。(【承和の変】参照>>)
なんせ、藤原明子の父は太政大臣(だいじょうだいじん=国家機関の最高職)の藤原良房(よしふさ)で母は嵯峨天皇(さがてんのう=第52代)の皇女ですから。
血筋&後盾のどっちを見ても弟の惟仁親王に軍配が上がる。。。
とは言え、未だ生まれたばかりではさすがに~
…という事で、文徳天皇も、
「まずは第1皇子の惟喬親王に皇位を譲り、その後、惟仁親王が成長したあかつきに兄から弟に皇位を譲れば良い」
と、長~いスタンスで考えておられたようなのですが、
ところがドッコイ…、藤原良房の頭の中はそうでは無かった。。。
結局、藤原良房らの反対によって、わずか生後8ヶ月の惟仁親王が皇太子となり、その後、9歳で文徳天皇の崩御に伴い嘉祥三年(850年)に第56代天皇=清和天皇(せいわてんのう〉(12月4日参照>>)として即位・・・藤原良房は臣下で初の摂政(せっしょう=幼天皇の補佐)となるのです(8月19日参照>>)。
この一連の流れは、100年以上経った後の、あの一条天皇(いちじょうてんのう=第66代)崩御(6月13日参照>>)の時の次期皇太子を巡る
敦康親王(あつやすしんのう=母が藤原定子)か?
敦成親王(あつひらしんのう=母が藤原彰子:道長の孫:後の後一条天皇)か?
でモメた時にも、
「かつては…の話」として持ち上がっているくらいですから、かなり有名な話だったのでしょうね。
皇位への道を断たれた惟喬親王は、天安二年(858年)に大宰権帥(だざいのごんのそち=大宰府の長官)に任ぜられて14歳で現在の福岡県へ・・・
その後、常陸(ひたち=茨城県)や上野(こうずけ=群馬県)の国司(こくし=その地方の政務長官)などを歴任しますが、
貞観十四年(872年)、28歳の時に病を得たとして出家(素覚と号す)した後は、ただただ静かに隠棲(いんせい=山奥などで俗世を逃れて暮らす事)生活を送る事になります。
その場所は、
小野(おの=比叡山麓)だったり、
近江(おうみ=滋賀県)だったり、
大原(おおはら=京都市左京区)だったり、
あるいは、
山崎(やまざき=京都府乙訓郡)や
水無瀬(みなせ=大阪府三島郡島本町)。。。
さらに京都市内に寺を結んで移り住んだとも、、、
とにもかくにも、ただただ静かに暮らし、
寛平九年(897年)2月20日、惟喬親王は54歳で薨去(こうきょ=親王など三位以上に使う死去の表現)されます。
つまり28歳で出家してからは、まったく表に出る事無く静かに暮らされていたわけですが、上記の通り、なぜか?隠棲生活されていた場所が複数語られ、その場所に惟喬親王の伝説が残っているのです。
もちろん、これらのお話は、あくまで伝説・・・正史と呼べるのは、上記の皇位継承から排除されたくだりしか無いわけですが、
近江では滋賀県東部を流れる愛知川 (えちがわ)の源流となる山奥にて、わずかの供を連れた惟喬親王が現れ、
経典をくるくるとほどく様子から思いついた轆轤(ろくろ)の技術を考案して地元民に教えた…として木地師(きじし=ろくろで木工品を造る職人)の祖とされているとか、
同じく近江は琵琶湖の東岸(現在の近江八幡市付近)にて手芸や細工の技術を教えた…とか、
また愛知川を渡れず困っていた惟喬親王を地元民が背負って渡った事で苗字を貰った者がいるとか、
あそこの神社には惟喬親王手作りの碗が奉納されているとか、
〇〇神社を創建したのは惟喬親王だ…とか、とにかく東近江には親王の伝説が数多く残ります。
さらに京都市北区雲ケ畑出谷町(くもがはたでたにちょう)には、その名も惟喬神社(これたかじんじゃ)という、これまた惟喬親王を祭神に祀る神社があり、ここは隠棲生活のために造営された離宮があった場所なのだとか。。。
それら以外にも、
薨去された後に家臣の1人が分霊を願い出てお祀りした神社が三重県にあったり、
追手から逃れて吉野(よしの=奈良県)に隠れておられた時のエピソ-ドが、現地に残されていたり。。。
信用性がありそうな物から
「さすがにこれは…」
てな雑多な伝説までありますが、
極めつけは、あの小野小町(おののこまち)との恋物語まで…
惟喬親王と小野小町は、かねてより相思相愛の仲で、親王が 隠棲生活に入ってからは、常に小町が側にいて仲良く暮らした~なんてね。
まぁ、小野小町の年齢がハッキリしないのでアレですが、一応、一般的には、惟喬親王の父である文徳天皇や、その父の仁明天皇(にんみょうてんのう=54代)の時代に宮仕えをしていた女官とされていますから、それを踏まえると、けっこうな年上女房になります。
また、以前ご紹介したように(3月18日参照>>)、
貞観八年(866年)生まれの紀貫之(きのつらゆき)が
「小町、メッチャ美人やねん」
と言ったり、
弘仁七年(816年)生まれの遍昭(へんじょう=良岑宗貞:桓武天皇の孫)と交わしたとされる
小町=「今夜、布団貸してくれる?」
遍昭=「ウチには一組しか無いから一緒に寝るか?」
てな歌なんか見ても、
もう、母子ほど離れてる感じがプンプン・・・
いや、なんぼ年上でも、小野小町がメッチャ美人やったら無い話ではない・・・(←個人の見解です)
とは言いながらも、
さすがに、この小野小町との恋バナは、仲良しの在原業平(ありわらのなりひら)(5月28日参照>>)の浮かれた話から着想された創作物語のように思います。
以前に惟喬親王の別荘とされる渚の院(なぎさのいん=大阪府枚方市)のところでもお話させていただきましたように(4月8日参照>>)、
『伊勢物語』の主人公のモデルとして知られる在原業平は、実際に小野小町をモノにした事がある、あるいは小町のもとに通う深草少将(ふくくさのしょうしょう)と同一人物とも言われる平安のモテ男。。。(1月12日参照>>)
しかも惟喬親王より19歳年上なので、親王よりは15歳以上は年上であろう小野小町ともピッタリ・・・
在原業平も、平城天皇(へいぜいてんのう=第51代:桓武天皇の皇子)の孫でありながら、あの藤原薬子(ふじわらのくすこ)の乱(9月11日参照>>)によって父の阿保親王(あぼしんのう=平城天皇の皇子)が皇位継承候補がら外された事により臣籍降下(しんせきこうか=皇族が姓を賜り臣下になる事)した人で、
親戚でもあるしお互いに重なる部分があったと見え、惟喬親王とは親友のように仲良くしていた事は事実のようですので、小野小町との恋物語のくだりは、そこらあたりからの影響を受けた伝承なのでしょうね。
…にしても、
おそらくは、かなり早い段階で歴史の表舞台から降り、その後は静かに暮らしていた惟喬親王に、なぜ?こんなに多くの伝説が残っているのでしょう?
それこそ、
上記の伝説のうち、どこまで真実かどうかを確かめる術が無いのと同様に、その「なぜ?」を解く事はできないでしょうが。。。
なので、あくまで推測ですが・・・
自らの責任では無い事で表舞台から排除され、静かに清貧に生きる皇子の姿を垣間見た地元の人々が、その悲運を悲しみ、少しでも幸せになっていただきたいと願った・・・
その人々の思いによって、いつしか
「誰語るとも無い様々な伝説」
が、自然発生的に生まれていったという事なのかも知れませんね。
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