宇喜多直家による三村家親の暗殺~弔い合戦が始まる
永禄九年(1566年)2月5日、宇喜多直家が遠藤兄弟に命じて三村家親を暗殺しました。
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室町政権下においての中国地方は、
山名宗全(やまなそうぜん)(3月18日参照>>)の山名氏、
赤松満祐(あかまつみつすけ)(6月24日参照>>)の赤松氏、
さらに、
山陰の尼子(あまこ)氏(7月10日参照>>)、
などが勢力を誇った時代から戦国も後半になると、それぞれの国人(こくじん=地侍)領主が群雄割拠し始める中、安芸(あき=広島県)において、あの毛利元就(もうりもとなり)が頭角を現して来ます。
そんな中で、備中(びっちゅう=岡山県西部)に根を張る三村家親(みむらいえちか)は、いち早く毛利元就の資質に気づき、備中で最初に毛利傘下となった国人領主だったとされ、永禄二年(1559年)にはお互いの協力タッグにて守護代(しゅごだい=副知事)の荘(しょう=庄)氏を破ります(2月15日参照>>)。
やがて備中松山に侵出した三村家親は、松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市内山下)を拠点に、さらに勢力を拡大すべく備前(びぜん=岡山県東南部と兵庫県の一部)や美作(みまさか=岡山県東北部と兵庫県の一部)に侵攻していきます。
しかし、その備前には天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)を拠点とする浦上宗景(うらがみむねかげ)が・・・
これに危機感を抱いたのが、その浦上の被官(ひかん=配下の官僚)であった宇喜多直家(うきたなおいえ)でした。
かくして永禄九年(1566年)2月5日、宇喜多直家は知り合いの細川(ほそかわ=阿波細川家)の浪人であった遠藤秀清(えんどうひできよ)&遠藤俊通(としみち=秀隆とも)兄弟に声をかけ、興善寺(こうぜんじ=岡山県久米郡久米南町)の陣中にいた三村家親を襲撃させたのです。
この時代には珍しい火縄銃による、まさに一発必中の暗殺でした。
家親を失った三村では、長男の元祐(もとすけ)が上記の荘氏を継いでいた事から、次男の三村元親(もとちか)が家督を継ぐ事になります。
もちろん、このまま黙ってはいられない三村一族。。。
当然、
その直後から、三村氏の本拠である成羽鶴首城(かくしゅじょう=岡山県高梁市成羽町)にて重臣たちによる弔い合戦の話が持ち上がりますが、
「これを見過ごしては当家の恥辱!」
と息巻く者もおれば、
「時を見て事を起こすべき」
という慎重派もいて、なかなか議論が前に進みません。
…というか、会議では慎重派が主流。。。
なんせ、暗殺をする←という事は、正攻法では勝ち目が無い~となって暗殺するわけですから、家単位で言えば、三村は充分宇喜多を倒せる・・・
しかし、宇喜多の後ろには浦上がいるわけで・・・タイミングを見計らって…と考えるのは至極当然です。
まして後を継いだ三村元親もまだ若く、さらに下の弟=実親(さねちか)に至っては、わずか10歳です。
結局、軍議では、
まずは元親&実親兄弟を重臣一同で盛り立てて、ある程度の成長のあかつきに一戦交えるべし!との意見に軍配が上がるのです。
しかし、どうしても気持ちが修まらないのが、一族の中でもイケイケ派だった三村五郎兵衛(ごろうびょうえ)なる人物。。。
「当主の弔い合戦もできんようじゃ、三村家の恥!」
とばかりに、
「ならば我が一族だけで弔い合戦を決行しよう」
とばかりに、2ヶ月後の4月に、わずか50騎ばかりの郎党をしたがえて出陣したのです。
三村家親弔い合戦の関係要図↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>
途中で加勢が現れ、わずかに増えたものの、結局は100騎に満たない小勢。。。
兵が国境を越えた頃、五郎兵衛は宇喜多直家の拠る沼城(ぬまじょう=岡山市東区沼・亀山城とも)へ向けて使者をたて、挑戦状を送った後、手勢を2手にわけて進軍します。
途中、旭川(あさひがわ)を越える釣ノ渡(つりのわたし=岡山県岡山市中区今在家付近)から南へ向かう1軍を五郎兵衛が率い、もう1手は矢津(やづ=同岡山市東区矢津)越えにて直接沼城に向かわせます。
これを知った直家は、弟の宇喜多忠家(ただいえ)を大将に約3000の兵をつけて三村軍の襲撃に備えます。
まずは自軍を3手に分けて、そのうち1手は五郎兵衛迎え撃つべく南へ・・・次の1手は矢津越えに。
残りの1手は、いざという時、どちらの応援もできるように遊撃隊として備えました。
戦闘は、まず、南に迂回した五郎兵衛50騎とそれを、迎え撃つべく配置された宇喜多軍との間で始まります。
はじめは決死の覚悟の三村勢に少々宇喜多勢は翻弄され、多勢ながらも苦戦となります。
しかし、そこを宇喜多忠家率いる本隊が横槍を入れて挽回を開始。。。
そうなると、さすがの三村勢も多勢には勝てず、奮戦空しく五郎兵衛以下、三村勢は全員、壮絶な討死を遂げたのです。
一方、矢津を越えて攻撃して来た三村勢には、宇喜多家臣の戸川平右衛門(とがわへいうえもん=秀安)の軍勢が当たりますが、コチラも初めは、決死の相手に押され、打ち負けて退きそうに・・・しかし、そこを例の遊撃隊が救援に駆けつけて助けに入ると、やはり多勢に無勢・・・
結局、三村勢は敗退しつつ追い詰められ、ほぼ全員が討死・・・・
こうして、家親弔い合戦は宇喜多軍の勝利に終わったのですが、
終わってみれば・・・
相手が一族の内のごく一部の少数であったにも関わらず、宇喜多勢にも47人の使者と100人以上が負傷する結果となってしまったのです。
今回は、血気にはやった五郎兵衛の一族だけだったおかげで蹴散らせたものの、
その命の捨てっぷりを見る限り、残った三村一族の者たちも、おそらくは同様の怒りを心に抱えているわけで。。。
その恨みツラミの猛攻撃に備えて、宇喜多直家は、このあと明禅寺城(みょうぜんじじょう=岡山県岡山市)を築く事になるなるのですが、
怒り修まらぬ三村方によって、この明禅寺城下に火が放たれるのは、翌年=永禄十年(1567年)7月の事・・・と、そのお話は2020年7月14日 の【明善寺合戦】>>のページでどうぞm(_ _)m
(話の流れ上、前半部分が今回の弔い合戦にお話になっていますのでご了承くださいませ)
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