松永久秀の大和平定~第3次井戸城の戦い
元亀元年(1570年)3月27日、織田信長からの了解を得て大和平定に勤しむ松永久秀が、筒井順慶傘下の井戸城を落としました。
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古くから興福寺(こうふくじ)や春日大社(かすがたいしゃ)などの寺社勢力が強かった大和(やまと=奈良県)の地は、いつしか興福寺に属する『衆徒』、春日大社に属する『国民』など、寺社そのものよりも、在地の者が力を持つようになる中で、南北朝時代には『衆徒』の代表格=筒井(つつい)氏が北朝に、『国民』の代表格越智(おち)氏が南朝について力をつけていったわけですが、
やがて、あの応仁の乱(5月20日参照>>)で、室町政権下での大和守護(しゅご=県知事みたいな)であった畠山(はたけやま)氏の畠山政長(はたけやままさなが=甥:東軍)と畠山義就(よしなり・よしひろ=叔父:西軍)が後継者争い(10月18日参照>>)を繰り広げた事から、
守護が名ばかりとなる中で、この大和の地が度々の戦場となり(7月12日参照>>)、嫌気がさした在地の国人(こくじん=在地領主)や土豪(どごう=半士半農の地侍)たちが力をつけて来て、そんな畠山を大和から追い出すべく立ち上がったのが、文明十七年(1485年)に起こった山城(やましろ=京都府南部)の国一揆(12月11日参照>>)でした。
しかし、そんな山城の国一揆も一枚岩では無かった事から、わずか8年で衰退を見せはじめた明応二年(1493年)に、山城の国一揆を鎮圧した(9月17日参照>>)事で中央にも認められ、大和の半分を支配する実力者となったのが古市城(ふるいちじょう=奈良市古市町)の古市澄胤(ふるいちちょういん)です。
そうなると当然、大和全域を支配すべく領地拡大に走るのが人の常・・・
永正元年(1504年)に古市澄胤は、筒井氏の傘下にあった井戸城(いどじょう=奈良県天理市石上町)を攻めますが、この時の井戸方は筒井順賢(つついじゅんけん)の援助を受けて奮い立ち、城を死守したばかりか、その勢いに乗じて、ともに古市勢を猛攻して古市城を落としています。・・・これが第1次の井戸城の戦い(9月21日参照>>)と呼ばれる戦いです。
やがて、この大和の地も戦国に突入する中で、上記の古市追い落としをキッカケに力をつけ、いつしか大和の大半を手中に治めて(9月15日参照>>)、大和在地の一番手となっていたのが筒井順昭(つついじゅんしょう=順賢の兄弟?もしくは甥)でした。
しかし、その順昭が天文十九年(1550年)に亡くなって、わずか3歳の息子=筒井順慶(じゅんけい)が筒井の当主となった頃に乗り込んで来たのが、
江口(えぐち=大阪市東淀川区江口周辺)の戦い(6月24日参照>>)で勝利して京都を制圧し、第13代室町幕府将軍=足利義輝(あしかがよしてる)とも和睦して(6月9日参照>>) 、事実上の天下人となっていた三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)。。。
その家臣の松永久秀(まつながひさひで)が、
「畿内を制する者は天下を制す」
(畿内=大和・山城・河内・和泉・摂津)
とばかりに、の主君の命を受けて(↑の通り大和も畿内に入ってるのでね)大和平定に向かって来たのです。
その最初のターゲットとなったのは筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)ではなく、現在、井戸良弘(いどよしひろ)が当主となっている井戸氏の井戸城だったのです。
もちろん今回も、井戸城の窮地を知って援軍に駆けつける筒井勢でしたが、残念ながら力及ばず・・・永禄三年(1560年)8月24日、井戸城は開城となったのでした。
これが第2次井戸城の戦い(7月24日参照>>)と呼ばれる戦いです。
その後、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城し、三好長慶亡き後の永禄八年(1565年)には筒井順慶を逃走させて筒井城を手に入れる松永久秀でしたが、
上記の井戸良弘も、そして筒井順慶も、城を明け渡しはしたものの本人は逃走して健在・・・ここから両者と松永久秀の取ったり取られたりが繰り返される事になるのですが
●【筒井城攻防戦】参照>>
●【東大寺大仏殿の戦い】参照>>
そんな中で永禄十一年(1568年)に登場するのが、義輝亡き後の将軍候補である足利義昭(よしあき=義輝の弟)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)ご存知、織田信長(おだのぶなが)。
三好長慶亡き後は三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)らとツルんでいた事もあった松永久秀ですが、この頃には三人衆とは袂を分かち、三好長慶の後継者となった三好義継(みよしよしつぐ=十河重存)(11月16日参照>>)を連れ、ここに来て織田信長傘下となったのです。
●第3次井戸城攻防戦の位置関係図Ⅱ
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
そこで信長から「大和は切り取り次第」=久秀が勝ち取った場所は治めてイイヨのお墨付きをいただくとともに、約2万の織田の兵士を援助してもらった事から、永禄十一年(1568年)の10月頃から、再び久秀は大和の諸城に攻撃を開始します。
この10月9日に筒井城を落としたのを皮切りに次々と・・・
翌・10日は森屋城(もりやじょう=奈良県磯城郡田原本町)(8月6日参照>>)と窪之庄城(くぼのしょうじょう=奈良県奈良市窪之庄町)(7月17日参照>>)落とした勢いそのままに井戸城攻めに突入します。
しかし、良く護る井戸城兵に初期攻撃を阻止された松永久秀は、すでに武器や兵糧を万全に備えている城内の様子を察知し、やみくもに力攻めをすることを止め、周辺4ヶ所に付城(つけじろ=攻撃用の臨時の城)を構築して、得意の長期戦に持ち込むのです。
この時の松永方は、武器や兵糧の城内への持ち込みだけは完全阻止で神経を向けていたものの、目立った攻撃はせず、比較的穏やかな雰囲気でただただ城を囲む…といった感じで、ときおり、合戦に無関係な公家の現地訪問などもあったとか・・・
しかし、そんな中でも井戸城兵の士気は高く、閏5月6日の深夜には、夜陰に紛れて包囲する松永陣営を襲撃して、かなりの打撃を与えて
「井戸兵恐るべし」
と、松永兵を大いにビビらせたのだとか・・・
とは言え、鼠一匹見逃さぬ包囲網となると、やがては兵糧&武器弾薬の在庫も尽きてくるわけで。。。
やがて元亀元年(1570年)の年も明け、籠城も1年が経過しようとする頃になると、自然と城内の雰囲気にも不安の陰りが見え始めるのですが、
ちょうどその頃、すでに落ちた筒井傘下の豊田城(とよだじょう=奈良県天理市)から逃走し、この井戸城を頼って入城していた豊田の兵が一斉に退去するという事件が起こります。
実は、彼らの中に、すでに松永方に内応しておきながら、井戸城を守るフリをしつつ情報を流していた者が複数おり、その一部がバレた事に寄って身の危険を感じて脱出したのでした。
これを受けた井戸城では、残った豊田の者を女子供も含み、有無を言わさず全員処刑しました。
「ならば…」
とこれに対抗するがの如く、2月20日、松永方でも人質として預かっていた井戸良弘の娘(8歳)を処刑して井戸城の門前に晒したほか、数人の人質(武将の息子たち)を殺害したのです。
『多門院日記』では、
「童女童男ニ罪ハナシ」
と筆者が嘆いていますが、確かに、遠目で見てる第三者や後世の者からしたら悲惨ですが、世が戦国ならその童の父母も命懸けてますからね。
このあとしばらくは、あまり動きの無いこう着状態が続く籠城戦ですが、それでも囲む側の松永方に、数の上でも状況を見ても有利な事は確か・・・
そんな籠城戦が、あっけなく終わりを迎えるのは元亀元年(1570年)3月27日の事でした。
松永軍が仕掛けた夜襲を受けて、井戸兵は戦う事無く(兵数を維持するためか?)すんなりと城を去って明け渡したのです。
前半部分に書かせていただいた通り、これまで井戸城は2度戦場となっていて、今回が3度目=第3次井戸城の戦いと呼ばれる戦いですが、これを以って最後の戦いとなりました。
それは、この城を手にした松永久秀が、その約1週間後の4月5日に井戸城を破却するからです。
しかし城が無くなっても(上記の通り)井戸良弘も、そして城兵も健在です。
なので、この後の井戸さん方は、筒井軍の一翼を担う戦士として活躍し、ご存知のように、松永久秀の方が先に没落していく事になります。
(井戸城は再び建て直されたとの話もアリ)
続きのお話は松永VS筒井の項↓で…
●辰市城の戦い>>
●多聞山城の戦い>>
●順慶の吉野郷侵攻~飯貝本善寺戦>>
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コメント
「麒麟がくる」での吉田鋼太郎さん。懐かしいですね。
明日からの朝ドラ「あんぱん」では主人公のおじいさん役です。
投稿: えびすこ | 2025年3月30日 (日) 14時07分
えびすこさん、こんばんは~
麒麟がくるの松永さんも、けっこうトンデモなキャラ設定でしたね
ま、筒井順慶も大概でしたが…(笑
投稿: 茶々 | 2025年3月31日 (月) 01時36分