上杉謙信の小田原城攻め~VS北条氏康の大槻合戦
永禄四年(1561年)3月14日、事実上の関東管領となった上杉謙信が、北条氏康の本拠である小田原城を囲み、大槻にて戦闘を繰り広げました。
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永禄二年(1559年)10月、2度目の上洛(4月27日参照>>)を終えて越後(えちご=新潟県)に帰国した上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎ですがややこしいので謙信呼びで統一します)に対し、
周辺の諸将はこぞって刀などの宝物を献上したり、宴を開いたりしてもてなしました。
それはひとえに、今回の上洛によって謙信が天皇から『戦乱平定の綸旨(天皇の命令書)』を賜った事とともに、
関東管領職(かんとうかんれいしょく=関東公方の補佐役)を継ぐ事が、ほぼ決定した事に対する祝賀の意味での行動でした。
綸旨に関しては、甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)に攻撃された信濃(しなの=長野県)の村上義清(むらかみよしきよ)(9月9日参照>>)や小笠原長時(おがさわらながとき)(4月22日参照>>) を保護した事で
謙信自身も武田信玄の敵となり、その戦を平定(←つまり川中島の戦い:参照>>)するお墨付きを天皇からいただいた事になるわけです。
もう一つの関東管領は(6月26日参照>>)、
勢力拡大する北条氏康(ほうじょううじやす)から関東を追われた上杉憲政(のりまさ=山内上杉家)(4月20日参照>>)を、
これまた保護した事により、その上杉の家督と関東管領職を謙信に譲る決意を固めた事が公けとなったからなわけです。
もう、そりゃ、誰だってなびきますわなww
永禄三年(1560年)に入ってからは、常陸(ひたち=茨城県)の佐竹(さたけ)や下総(しもうさ=千葉県北部など)の千葉(ちば)、下野(しもつけ=栃木県と軍歌県の一部)などなど関東一円の武将たちがこぞって祝いの品を届けて来たりして、
もはや誰が見ても、謙信の関東管領就任は決定事項のように・・・
とは言え、当然の名跡には交換条件もあります。。。。
そう、関東への出兵です。(関東を管理せなアカンもんね)
ここに来て上杉憲政は、長尾政景(ながおまさかげ=後の上杉景勝の父)を通じて正式に出兵を要請・・・
また、北条と絶賛敵対中の安房(あわ=千葉県南部)を本拠とする里見(さとみ)(1月20日参照>>)や佐竹からの出陣要請も受けます。
この里見からの要請をキッカケに、いよいよ謙信は、この永禄三年(1560年)の8月に出兵を決意・・・配下の諸将に参陣を命じて、上杉憲政を奉じて関東へ向かいます。
まずは三国峠(みくにとうげ=新潟県南魚沼郡と群馬県利根郡)を越えて上野(こうずけ=群馬県)に入り、
8月9日に沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市沼田)、続いて岩下城(いわしたじょう=群馬県吾妻郡東吾妻町)を攻略すると
厩橋城(まやばしじょう=群馬県前橋市:後の前橋城)を落とし、武蔵(むさし=東京都)に南下して羽生城(はにゅうじょう=埼玉県羽生市)を落としました。
これを受けた北条氏康は、包囲していた里見の久留里城(くるりじょう=千葉県君津市久留里 )から退き、
河越城(かわごえ=埼玉県川越市)に移動した後、10月には松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)に入って厩橋城の謙信と対峙する事になります。
この間に、越中(えっちゅう=富山県)にて神保長職(じんぼうながもと=信玄派)に攻められていた椎名康胤(しいなやすたね)が救援を求めて来た事で、
謙信は電光石火で神保長職の富山城(とやまじょう=富山県富山市)を落としています(3月30日参照>>)。
(合間にスゴイなぁw(@o@)w)
一方、コチラ=関東の進展は・・・やはり、そんな謙信の勢いがスゴかったのか?
ここらあたりから北条側に離反者が相次ぎ、氏康は数的に劣勢に立たされてしまい、敵の敵はみかたとばかりに、
かの武田信玄や、御大の今川義元(いまがわよしもと)を失ったばかり(永禄三年5月19日【桶狭間の戦い】参照>>)の息子=今川氏真(うじざね)にも出兵を要請・・・
しかし、その勢いは止められず、やむなく氏康は松山城から本拠の小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)へと退き、ここで籠城戦を展開する作戦に。。。。
年が明けた永禄四年(1561年)には、北条方の他の城も徐々に籠城作戦に踏み切る中、3月7日には、謙信がいよいよ相模(さがみ=神奈川県)に侵入して来ます。
この頃には、遅れていた北関東の上杉派の諸将も次々と上杉軍に合流し、当麻(たいま=神奈川県相模原市南区)から厚木(あつぎ=神奈川県厚木市)を侵しながら、北条氏の本拠である小田原城下に迫り、次々と周辺に放火して回ります。
もちろん北条側も、
籠城戦とは言え、ただ城内に引き籠っているわけではなく、兵を小刻みに出しては退き、戦線をかく乱しました。
かくして永禄四年(1561年)3月14日、大槻(おおづき=秦野市)にて両者は相対し、
北条家臣の大藤秀信(だいとうひでのぶ)が、上杉方の名のある武将6名を討ち取る大活躍を見せ、この日の合戦は北条方の勝利に終わります。
さらに南下する上杉軍に対する北条軍は、22日には曽我山(そがやま=同小田原市曽我)で、
24日にはぬた山(同南足柄市怒田)でも戦闘が行われ、謙信自身も小田原近辺の酒匂川(さかわがわ)付近に陣を置き、小田原城に睨みを効かせました。
世に言う、上杉謙信の小田原攻め=小田原城の戦いですが、、、
結果的には、ここから10ヶ月以上も小田原城を囲みながら、結局、謙信は開城させる事ができずに越後へと帰還する事になってしまう今回の小田原攻め・・・
ドラマや小説等では、機動力を活かして攻める謙信に、鉄壁の要塞の小田原城で守り抜く北条というドラマチック構図ができあがり、なかなかにカッコイイ戦闘シーンが度々描かれたりしますが、
実のところ小田原城で戦闘があったどうかの信頼できる記録は無く、どちらかと言うと、この時の戦いは、周辺各地で行われた小規模な戦いの集合体であったというのがホントのところのようです。
なので、おそらく1番大きな戦闘かつ最も「確実にあった」であろう戦いが、この3月14日の大槻での戦闘だという事で、
この永禄四年の上杉謙信の小田原攻めは、同時代の史料では「大槻合戦」という名で登場し、現在、一般的に参照されている『戦国合戦大事典(新人物往来社)』でも、その名が採用されています。
ま、ドラマや小説では、イケメン上杉謙信を見たいし、男前な北条氏康を見たいので、そこのところは、よりドラマチックで大いにカッコ良く描いていただきたいですけどね。
ちなみに、今回は小田原城を落とせなかった謙信ですが、この大槻合戦から約1ヶ月後の閏3月16日に、鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市)にて、山内上杉家の家督と関東管領職を正式に相続し、自身の名を上杉政虎(まさとら)に改め、更なる高みを目指す事になります。
このあとの謙信については
●永禄四年8月8日=春日山城出陣>>
●同9月10日=第四次川中島の戦い>>
●同11月27日=生山の戦い>>
などから、
北条氏についでは「北条五代の年表」>>からどうぞm(_ _)m
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コメント
この小田原攻めは「長尾」姓時代の最後の戦いになりますね。
後年の豊臣秀吉の様に攻撃の合間に、小田原城の至近距離に城か大きな砦を築いていれば、また展開は違っていたかも?
投稿: えびすこ | 2025年3月25日 (火) 17時05分
えびすこさん、こんばんは~
武田信玄も落とせなかったですからね~
小田原城は堅固です
投稿: 茶々 | 2025年3月26日 (水) 01時20分