京都争奪戦~三好長慶VS六角義賢の清水坂の戦い
永禄五年(1562年)3月6日、都を牛耳る三好長慶に対し、清水坂に布陣した六角義賢が洛中に放火する清水坂の戦いがありました。
・・・・・・・
室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)として明応の政変(めいおうのせいへん=将軍交代劇)(4月22日参照>>)を決行して実権を握った細川政元(ほそかわまさもと)・・・
その政元亡き後で起こった3人の養子による後継者争いで(1月10日参照>>)、最終的に打ち勝ったのは故郷の阿波(あわ=徳島県)にて没した細川澄元(すみもと)の息子=細川晴元(はるもと)でした(6月8日参照>>)。
しかし晴元は、1番の功労者であった家臣の三好元長(みよしもとなが)を天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)大和一向一揆で死に追いやってしまいます(7月17日参照>>)。
父の死を受けて三好家の後継者となったのは嫡男の三好長慶(ながよし=三好元長の長男)でしたが、
この時、未だ12歳の少年であったため、一旦、父の恨みを捨てて細川晴元に仕えるのです。
やがて成長して力をつけた三好長慶は、かつて晴元と後継者争いをした細川高国(たかくに)の養子=細川氏綱(うじつな)を冠に据えて(9月14日参照>>)、
天文十八年(1549年)の江口(えぐち=大阪府大阪市)の戦いに勝利して(6月24日参照>>)細川晴元を、時の将軍=足利義晴(あしかがよしはる=第12代将軍)とともに京都から追い出して都を掌握したのです。
その後、拠点を芥川山城(あくたがわさんじょう=大阪府高槻市)から飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市及と四條畷市)に移した長慶は、
家臣の松永久秀(まつながひさひで)を所司代(しょしだい=警察長官)に据えて幕政を仕切るようになった事で、
事実上、細川政権が崩壊して三好政権の誕生となり、現在では三好長慶は戦国初の天下人と言われます。
とは言え、京都を追われた足利義晴や細川晴元も黙ってはおらず、度々の京都奪回を試み、
さらに義晴を支持する近江(おうみ=滋賀県)の六角義賢(ろっかくよしかた=承禎:六角定頼の嫡男)を巻き込んで、更なる戦いが繰り広げられる事になります。
それは、天文十九年(1550年)に足利義晴が亡くなり、その息子である足利義輝(よしてる)が13代将軍を継いだ後も続き、、、(参考↓)
上記の北白川(白川口)の戦いのあと両者は和睦して、足利義輝はようやく永禄元年(1558年)11月に京都に戻る事ができたのです(11月27日参照>>)。
(細川晴元はしばらく近江に留まる:3月1日参照>>)
こうして、将軍=足利義輝を冠に、そのトップ補佐の座についた三好長慶は、その生涯における全盛期を迎えます。
しかし、頂点に立てば、あとは下るだけになってしまうのは世の常・・・ここらあたりから長慶にとって不幸な状況が襲い掛かります。
まずは永禄四年(1561年)4月に、鬼十河(おにそごう)として三好政権を支えて来た下の弟=十河一存(そごうかずまさ=三好元長の四男)が、病を癒しに向かった有馬温泉にて急死(落馬説・病死説などあり)。。。(5月1日参照>>)
有能な弟の死は、当然、敵対する者にはチャンスと映るわけで。。。
早速、これを受けた六角義賢が、細川晴元の次男である細川晴之(ほそかわはるゆき)を看板に永禄四年(1561年)の7月には京都盆地の東に位置する瓜生山(うりゅうざん)に建つ将軍山城(しょうぐんやまじょう=京都市左京区北白川)に籠り、麓の神楽岡(かぐらおか=京都府京都市左京区吉田)に出ては、再三に渡って京都市街を脅かします。
11月24日には六角勢のスキを突いた三好勢が白川口(北白川付近)に来襲して大きな戦いに発展・・・(【将軍地蔵山の戦い】参照>>)
その後も乱戦に次ぐ乱戦がくりかえされる中、永禄五年(1562年)の正月に六角軍はついに京都市内へと軍を進めます。
さらに春になると、近江からの援軍を呼び、かつて六角氏がお世話になった甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)や伊賀(いが=三重県伊賀市)の武士たちも加わって六角軍は大いに気勢を挙げます。
かくして永禄五年(1562年)3月6日、六角義賢自らが息子の六角義治(よしはる=義賢の嫡男)&六角義定(よしさだ=義賢の次男:佐々木義定)とともに出陣し、清水坂(きよみずざか=京都市東山区)に本陣を構えて、攻撃を開始したのです。
しかも、同時に配下の者を勝龍寺城(しょうりゅうじじょう=京都府長岡京市)に籠らせて、三好軍の動きに備えさせてもいました。
ちなみに、この時、以前から同時攻撃されていた久米田寺(くめだでら=大阪府岸和田市)周辺の戦いで、三好長慶のすぐ下の弟である三好実休(じっきゅう=三好元長の次男:義賢・之康)が戦死しています。(【久米田の戦い】参照>>)
スマホもニュース速報も無い戦国時代・・・おそらくは、前日の弟の死を知らぬであろう三好長慶は、あまりの戦火に一旦、山崎(やまざき=(京都府乙訓郡大山崎町)に退去し、将軍=義輝も洛中を離れて八幡(やわた=京都府八幡市)へと移りました。
この時の六角軍は東山一帯に放火したほか、今出川二本松(にほんまつ=京都市上京区二本松町)から下京東洞院(ひがしのとういん=京都市下京区)でも放火&略奪&狼藉が行われ、洛中各所が焦土と化したのでした。
ま、このあと、勝利した六角義賢は、大徳寺(だいとくじ=京都市北区紫野)を通じて放火&狼藉の禁止を通達し、自軍で以って徹底した洛中警固を約束するわけですが。。。
(ま、軍事政権あるあるの「おま言う」状態ですがww)
その後、3月23日に六角義賢は、
- 洛中に入ろうとする敵を見つけたら追い出すべし
- 敵に内通する者は成敗する←をチクった者には褒美
- 敵から奪った物については当方は関知せず…けど、それを返すような事したら怒るで!
てな軍令を発布し、三好勢が去った洛中の施政を六角義賢が握る事になったのです。
とは言え
約3ヶ月後の6月には、長慶息子の三好義興(よしおき=長慶嫡男)と六角義賢の和睦が成立し、事が一旦治まったおかげで六角義賢は近江に帰還しますが、
世の中、何が起こるかわかりませんよね~(特に戦国やし)
翌年の永禄六年(1563年)の10月には観音寺騒動(かんのんじそうどう)が起って名門の六角氏に陰りが見え始め(10月7日参照>>)、
三好は三好で
さらに翌年の永禄四年(1561年)5月には、三好長慶が可愛い弟の安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男)を謀殺するという暴挙に(5月9日参照>>)・・・
さらにのさらに永禄八年(1565年)5月には足利義輝が暗殺され(5月19日参照>>)・・・戦国は、次の世代へと受け継がれる事になるわけで。。。
そして、
兄の暗殺に危険を感じて逃げた弟=足利義昭(よしあき)を奉じて織田信長(おだのぶなが)が上洛して来るのは永禄十一年(1568年)9月の事(9月7日参照>>)・・・
この時、上洛を果たした信長が、わざわざ芥川山城に滞在して畿内への采配を振るのは、そこが、三好長慶が都を掌握した時に拠点としていた縁起の良い場所だからなんですね~(…やと思う)
歴史はつながるつながる~
.
「 戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事
- 長尾為景を隠居に追い込んだ?上条定憲との三分一原の戦い(2025.04.10)
- 上杉謙信の小田原城攻め~VS北条氏康の大槻合戦(2025.03.14)
- 京都争奪戦~三好長慶VS六角義賢の清水坂の戦い(2025.03.06)
- 川中島真っ只中に謙信から信玄へ寝返る~北条高広の乱(2025.02.13)
- 宇喜多直家による三村家親の暗殺~弔い合戦が始まる(2025.02.05)
コメント