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2025年3月20日 (木)

但馬の応仁の乱~夜久野の合戦…太田垣新兵衛の奮戦

 

応仁二年(1468年)3月20日、応仁の乱での但馬における戦い=夜久野の合戦で、山名方の太田垣新兵衛が、細川方の内藤孫四郎&長政連を倒して勝利しました。

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応仁元年(1467年)1月17日の御霊合戦(ごりょうがっせん)(1月17日参照>>)という畠山政長(はたけやままさなが=義就の甥・東軍)畠山義就(よしなり=政長の叔父・西軍)同族主導権争いで口火を切った応仁の乱(おうにんおらん)

この時、「同族同士の家督争いには介入しない」という約束(将軍:足利義政の上意)を守って見ぬふりをした細川勝元(ほそかわかつもと=東軍総大将)でしたが、実際には畠山義就側に山名宗全(やまなそうぜん=持豊・西軍総大将)の孫である山名政豊(まさとよ)が参戦して勝利し、畠山政長が命からがら逃走した事を知り、

自身が参戦しなかった故に、結果的に畠山政長を見捨てた形になってしまった事を、大変くやしく思っていたのです。

そんな中、この年の後半になって西国の雄である周防(すおう=山口県東南部)大内政弘(おおうちまさひろ)西軍に参戦するために上洛して来るとの噂が立ち(10月2日参照>>)

大物の参戦に湧き上がる西軍に対し、これを警戒する細川勝元は、安芸(あき=広島県)毛利豊元(もうりとよもと=元就の祖父)に協力を呼びかけるとともに、東軍で参戦している武衛家(ぶえいけ=管領に准ずる武家)斯波義敏(しばよしとし)を大将に同族ながら西軍に属する斯波義廉(よしかど)守護(しゅご=県知事)を務める越前(えちぜん=福井県東部)尾張(おわり=愛知県西部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)などを脅かすように指示

また、あの嘉吉の乱(かきつのらん)(6月24日参照>>)によって墜落したものの、再起を測って勝元に味方した赤松政則(あかまつまさのり)(5月21日参照>>)を、旧赤松領で今は山名の領地となっている山陽の地に下向させて(10月22日参照>>)

山名&畠山義就の山陽山陰部隊を東西から挟み撃ちの形で包囲し、補給物資などを略奪して宗全ら中央軍団と遮断を図ります。

もちろん、これに黙ってはいない宗全は、
山陽山陰六ヶ国(安芸・石見・備前・備後・播磨・但馬)の配下の者に、速やかなる上洛を呼びかけます。

これを受けた山名派は、
早速、但馬(たじま=兵庫県北部)太田垣宗朝(おおたがきむねとも)はじめ垣屋(かきや)八木(やぎ)などの有力被官(ひかん=家来)、さらに国内の大半の国人(こくじん=地侍)が参加し、そこに因幡(いなば=鳥取県東部)地方の協力者を加えた約3万の大軍が、但馬出石(いずし=兵庫県豊岡市)に集結し、あえて細川の領国である丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北部)通過しつつ入京する計画を立てたのです

しかし、この時、丹波守護代(しゅごだい=副知事)を務めていたのは、細川家臣の内藤貞正(ないとうさだまさ)。。。

彼が、
「ここを通してなるものか!」
とばかりに、

この大軍を、夜久野郷(やくのきょう=兵庫県朝来市和田山町&京都府福知山市夜久野町付近)にて迎え撃ったのは応仁元年(1467年)6月8日(もしくは28日の事でした。

とは言え、世は応仁の乱真っ只中・・・当然の事ながら、この丹波の諸将も京都でのドンパチに駆り出されていて、そのだけで戦うわけで、おのずと多勢に無勢。。。。

一族の内藤貞綱(さだつな)をはじめとする多くの戦死者を出して内藤貞正方は敗北・・・この時は山名勢を通してしまうの事になったのです。

このままでは捨て置けぬ細川方は、翌・応仁二年(1468年)3月、長政連(ちょうまさつら)の援軍を得て、再び但馬朝来(あさご=兵庫県朝来市)に進撃します。

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合戦当時、太田垣宗朝が城主を務めていた竹田城

かくして、
応仁二年(1468年)3月20日内藤孫四郎(まごしろう)を大将に再び夜久野に展開・・・彼らを迎え撃ったのは、当主=太田垣宗朝の留守(竹田城主ですが京都の合戦に参加してるので…)を預かる太田垣一族の面々でした。

但馬に根を張る牧田(ひらた)一族を率いて出陣する太田垣新兵衛(しんべえ)・・・今回は、攻めて来た細川勢=内藤に対して、迎える山名=太田垣方は明らかに小勢でした。

この時、楽音寺(がくおんじ=兵庫県 朝来市 山東町)に陣を張っていた太田垣新兵衛は、今まさに攻めて来た敵を(おとり)と判断して相手にせず磯部(いそべ=兵庫県朝来市山東町大内字スゴ谷)方面へと進み、

夜久野小倉(おぐら=福知山市夜久野町)賀茂神社(かもじんじゃ)の高台から眺めてみると、東河(とが=朝来市和田山町)から侵出した内藤勢が、周辺に火を放ちつつ魚鱗(ぎょりん)の陣形(9月8日参照>>)に布陣しているのが見えたと言います。

その数の多さに一瞬、攻撃をちゅうちょする太田垣新兵衛でしたが、心落ち着かせ、自らが先頭に立って声をかけ、全員一斉に矛先を揃えて高台から下り、内藤勢めがけて突進して行ったのです。

いきなりの襲撃に驚きつつも迎えて奮戦する内藤勢でしたが、フイを突かれ動揺した一軍を立て直す事が出来ず、やがて内藤孫四郎が討死・・・続いて長政連も戦死してしまいました。

主を失った一軍は、もはや崩れるが必至・・・細川勢は我先に散り散りとなって逃走していったのでした。

こうして2度に渡る夜久野の合戦と呼ばれる戦いは、山名=太田垣の勝利となったのでした。

ちなみに、今回の異変を察知した山名宗全が、太田垣宗朝を急きょ領国救援へと戻したおかげで

その後は当主自ら率いる太田垣軍が、細川の領国である丹波まで侵入したと言われていますが、彼らがどのような合戦を展開したのかは定かではありません。(←残念ながら記録が無い)

と言いながらも、ご存知のように応仁の乱はまだまだ…てか、まだ始まったばかり~乱の全体像の確認は5月20日のページ>>m(_ _)m

★本来なら、ここでリンクを貼りたかった【応仁の乱の年表】を、まだまとめていなかった事に、今更気づく茶々であった(ToT)
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