今川氏親の遠江侵攻~井伊谷の戦い
永正九年(1512年)閏4月3日、今川氏親の遠江侵攻の中で、斯波派だった井伊直平が今川に屈服する事になる井伊谷の戦いが終わりました。
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未だ幼い頃に、駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事)を務めていた父=今川義忠(いまがわよしただ)を失った事で後継者争いに巻き込まれながらも、仲介役として幕府から派遣されて来た幕府奉公衆の叔父(生母の兄か弟)=北条早雲(ほうじょうそううん=当時は伊勢盛時)の支えで、何とか長享元年(1487年)に当主の座を獲得した今川氏親(うじちか=当時は龍王丸)。。。(11月9日参照>>)
ご存知のように、早雲はコレきっかけで都に戻る事無く、駿河に留まったまま氏親を助けつつ、自身も関東へと手を広げる戦国大名となっていくわけですが(北条については【北条・五代の年表】>>で)、
まずは今川の軍師的立場となって、このあとの氏親の遠江(とおとうみ=静岡県西部)進出の中心人物として活躍していく事になるわけです。
この今川の遠江進出は、亡き父=義忠の悲願であり、もちろん息子=氏親の悲願でもありました。
…というのも、そもそもは室町幕府初期の南北朝時代に、九州に南朝一大勢力を築いていた懐良親王(かねよし・かねながしんのう=後醍醐天皇の皇子)を、九州探題(きゅうしゅうたんだい)として派遣された今川貞世(さだよ)が平定した(3月27日参照>>)後に、遠江守護を任せられていたはずなのに、
なんだかんだで管領(かんれい=将軍の補佐役)家の斯波(しば)氏に遠江守護を取って代わられたばかりか、父=今川義忠の死には斯波義廉(しばよしかど)が関わっていた(4月6日参照>>)など、、、
そして、もちろん戦国武将としての領土拡大の野望もあった事でしょう。
そんなこんなで北条早雲は、伊豆に打ち入りして堀越公方(ほりごえくぼう=幕府が派遣した関東支配者)を滅亡させた(10月11日参照>>)頃の明応三年(1494年)には、早くも今川軍を率いて遠江北部に侵攻していますが、守護の斯波氏は静観・・・しばらくは動く事はありませんでした。
とは言え、さすがに、今川の更なる西への侵攻が見えた文亀元年(1501年)頃からは斯波氏も動き始め、当主の斯波義寛(しばよしひろ・よしとお)は信濃(しなの=長野県)の小笠原(おがさわら)氏などに援軍を要請したりなんぞして度々抵抗しています。
…と言っても、敵は斯波だけでは無いし、獲得したい領地も遠江だけではない今川氏親と北条早雲は、永正三年(1506年)頃からは、三河(みかわ=愛知県東部)へと矛先を向けます。
ちなみに、この前後の永正二年(1505年)頃、氏親は公家の中御門宣胤(なかのみかどのぶたね)の娘(後の寿桂尼)を正室に迎え、修理大夫(しゅりのだいぶ)に任ぜられるとともに、永正五年(1508年)には念願の遠江守護職を獲得しています。
しかし、この同じ年の永正五年(1508年)、三河に侵攻していた北条早雲率いる今川軍が岩津城(いわつじょう=愛知県岡崎市岩津町)にて松平(まつだいら=親忠?)に大敗を喫す…という出来事が、、、
(ちなみに、この戦い以降、早雲は関東制覇に徹します)
これまでの一連の戦いで少々押され気味だった斯波・・・この頃、父の後を継いで斯波を取り仕切っていた斯波義達(よしたつ=義寛の長男)は、この一件をキッカケに挽回へと動き出します。
この時の戦いの動きが確認されるのは永正七年(1510年)の12月頃から。。。
それは、今回の戦いに今川氏親の軍の一員として参戦した伊達忠宗(だてただむね)の軍忠状(ぐんちゅうじょう=戦いへの参陣や軍功などを証する書類)という形で残っている事からですが、、、
ちなみに、この伊達忠宗さんは独眼竜で有名な伊達政宗(まさむね)の息子で仙台藩を継いだ忠宗さんとは別人・・・もちろん祖は同じで一族ではありますが、
すでに鎌倉時代頃には奥州伊達氏とは枝分かれしていて、南北朝時代位からは駿河の国人(こくじん=地元に根付く中小領主)として活躍しており、今回の今川方でに参戦となっているわけです。
実際に戦いが始まったのは永正七年(1510年)12月28日。。。
今回、井伊(いい)氏と大河内(おおこうち)氏を味方につけて井伊谷(いいのや=静岡県浜松市浜名区)に入った斯波義達は、、、
(ちなみに、残る書簡には明記されていませんが、年代から考えて、この時の井伊氏は井伊直平(いいなおひら)、大河内氏は大河内貞綱(おおこうちさだつな)と考えられています)
まずはまきの寺(静岡県浜松市北区の旧東牧村にあった月光庵宝光庵)に布陣しますが、上記の28日に放火され、
やむなく井伊氏の支配下にある三岳城(みたけじょう=静岡県浜松市浜名区引佐町)と井伊谷城(いいのやじょう=静岡県浜松市浜名区引佐町)に近い花平(はなだいら)に陣を移します。
しかし年が明けた永正八年(1513年)正月5日に、この場所も火事になります。
前後の事を考えれば、おそらくは今川の手による放火作戦・・・現に今川氏親は斯波+井伊+大河内連合軍を分断させるべく刑部城(おさかべじょう=静岡県浜松市北区細江町中川)など複数の城を築き、そこに兵を入れて準備していたと言いますから、
とは言え、記録上は、上記の2件は火事があったというのみ・・・
しかし、翌・2月20日に三岳城の井伊次郎の陣所がまたまた火事に見舞われますが、コチラは
「…しのひヲ付申候」
と、今川方が放った忍者が入って放火した事が明記されています。
…というのも、その1週間前の2月12日に引間城(ひくまじょう=静岡県浜松市中央区:後の浜松城)の大河内衆の約200ほどの軍勢が物見に出て来たからなのですが。。。
ただ、そんな中でも勢いに任せてすぐに両者がぶつかる事は無く、お互いに長期戦を見込んだうえでの様子見ぃの動きばかり・・・
とは言え、7月9日には引間衆500が寄せてきたり、10月17日には斯波義達自らが1000の軍勢を率いて出陣したり、同月24日には井伊軍も約400で出陣して大河内と合流して気賀(きが=浜松市浜名区細江町気賀)まで到達・・・
と、徐々に両者の距離が縮まっている事がうかがえます。
そしてようやく動きが出た永正九年(1512年)4月23日、斯波の武衛衆(ぶえいしゅう=管領に准ずる武家の衆)に井伊&大河内を加えた連合軍が
「むきをなけ 苗代をふみ返し」
と、いわゆる刈り働きってヤツで周辺の田畑をぶっ潰しに来たので、迎え出た今川軍と清水口なる場所で交戦となり、
「心ㄟ(←くりかえし文字)においちらし候」
と、今川軍が斯波軍を追い散らしたとあります。
さらに翌月の閏4月2日(閏なので2回目の4月)には、斯波方が大軍で以って村櫛新津城(むらくししんづじょう=静岡県浜松市中央区)を攻め、周辺が焼き払われたものの、刑部城より70隻ほどの今川方の軍船が出陣して、これに対処したとの事です。
そして、その翌日・・・
永正九年(1512年)閏4月3日、今川方が刑部城より出て朝駆けにて井伊谷を急襲し、敵方3名を生け取りにした事が記されていますが、
どうやら、この閏4月3日の戦いを最後に、井伊谷の戦いと呼ばれる今川氏親序盤の遠江侵攻は、一旦終了という事になり、
結果的には、おおむね今川方の勝利にて幕を閉じます。
今川氏親の遠江侵攻関係要図↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>
さらに翌年の永正十年(1513年)3月7日に、氏親が三岳城を陥落させた事によって今川の勝利が確定的となり、以後、井伊氏は今川の傘下となるのです。
一方、
もう一翼の斯波の味方・・・大河内は、一旦は今川傘下になるものの、この4年後に引間城を占拠して今川に抵抗するのですが、
そのお話は2018年6月21日の【引馬城の戦い×3】>>の後半部分でどうぞm(_ _)m
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