毛利と尼子の狭間で…後藤勝基と川副久盛の美作林野城の戦い
永禄五年(1562年)5月1日、浦上に通じて尼子に反旗を翻した後藤勝基が、川副久盛の林野城を攻めました。
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美作(みまさか=岡山県東北部)林野城(はやしのじょう=岡山県美作市林野)は別名を倉敷城(くらしきじょう)と呼ばれ、三方を川によって遮られた天然の要害とされる山城です。
その築年数は不明ですが、南北朝時代に活躍した山名時氏(やまなときうじ=山名宗全の曾祖父)(6月9日参照>>)が、出雲(いずも=島根県東部)に侵攻して山陰に影響力を見せ始めた正平十六年・康安元年(1361年)に、その時氏によって落城した記録もあるので、おそらくは鎌倉時代の末から室町初めには、周辺諸将にもガッツリ認識されていた城であったと思われます。
やがて戦国時代の天文年間(1532年~1554年)頃になると、出雲と言えば…の尼子一族が勢力を誇るようになり、その勢力が美作まで南下すると、時の当主である尼子晴久(あまこはるひさ)は、
この林野城に重臣の川副久盛(かわぞえひさもり=河副とも)を置き、梶並川(かじなみがわ)を挟んだ西隣の三星城(みつぼしじょう=岡山県美作市明見)を居城とする後藤勝基(ごとうかつもと)とともに美作の東端を守る要としたのです。
とは言え、この後藤勝基さんは、尼子の勢力南下によって降伏し臣従した、もともとは独立した国人(こくじん=地侍)領主・・・心から尼子に臣従しているとは言い難いわけで・・・・
案の定、安芸(あき=広島県)の毛利元就(もうりもとなり)の台頭によって尼子の勢力が衰え始めた永禄三年(1560年)頃、その配下から離反し、密かに備前(びぜん=岡山県東南部)の浦上宗景(うらがみむねかげ)と通じる後藤勝基。。。
林野城の戦い・位置関係図↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>
かくして永禄五年(1562年)5月1日、後藤勝基は浦上氏の助力を得て、林野城を襲撃します。
しかし、この後藤勝基の動きを事前に察知していた川副久盛は、江見久盛(えみひさもり)をはじめとする部将(ぶしょう=一部隊を率いる侍大将)連中に指示を出し、敵が城を囲み始める前に出撃し、城下にてこれを迎撃する作戦に出ます。
これが見事に大当たり・・・後藤勢は散々に破られてしまい、やむなく後藤勝基は三星城へと逃げ帰ります。
そこをすかざず追撃・・・
その追撃があまりにもスピーディだったため、後藤勢は城内には戻れず、入田(にゅうた=岡山県美作市入田)&明見(みょうけん=同美作市明見)の間あたりで軍を反転させて戦うしかありませんでした。
当然の如く後藤勝基は苦戦を強いられる事になりますが、ここで、この後藤の状況を知ったのが、三星城に残って城を守る役回りをしていた部将たち。。。
すかさず城門から撃って出て苦戦の後藤勢を助けます。
しかし今度はそこに川副方の部将たちが援軍として駆け付け、反撃しつつあった後藤勢も、再びの敗走を余儀なくされる事になったのでした。
この時、未だ士気下がらぬ三星城方の徳之丞(とくのすけ)なる部将と、林野方の江見久次(ひさつぐ)との槍合戦の勝敗が決せず、どちらもが退き下がる様子が無かったものの、
両者の流血甚だしく、見るに見かねた川副久盛が、
「両者、引き分け」
として、何とか二人を引き離し、徳之丞を城門まで送り届けてから自らも凱旋したのだとか・・・
これを機に浦上の傘下となった後藤勝基でしたが、結局は、その浦上とも対立して、やがては毛利の傘下に・・・
一方の川副久盛は終生尼子氏を主君と仰ぐ姿勢を貫き、毛利に押されて林野城を捨てた後も、尼子再興を願って奮闘する尼子勝久(かつひさ)(4月18日参照>>)とともに各地を転戦する事となります。
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