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2025年4月18日 (金)

尼子勝久VS中島元行の経山城攻防戦

 

元亀二年(1571年)4月18日、尼子再興を目指し転戦する尼子勝久が囲む経山城にて、中島元行が徹底抗戦を表明しました。

・・・・・・・・

山陰を中心に、一時は11ヶ国に及ぶ広域な支配圏を持っていた尼子氏・・・

しかし、中国地方の二大巨頭であった周防(すおう=山口県)大内(おおうち)と尼子の間を行ったり来たりしていた(1月13日参照>>)安芸(あき=広島県)国人領主(こくじんりょうしゅ=中小の地侍)だった毛利元就(もうりもとなり)頭角を表して領国拡大を図ると、

ついに永禄九年(1566年)11月、本拠の月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市)を落とされ、当主の尼子義久(あまこよしひさ)尼子三兄弟が幽閉されて毛利の監視下に置かれ、事実上の滅亡となってしまいます(11月28日参照>>)

Yamanakasikanosuke500 しかし、それでも諦め切れない尼子家臣の山中鹿介(やまなかしかのすけ=山中幸盛)(7月17日参照>>)

すでに仏門に入っていた尼子一族の尼子勝久(かつひさ・義久の再従兄弟=はとこ)還俗(げんぞく=一旦、僧となった人が一般人に戻る事)させて当主と仰ぎ、月山富田城の奪回を目指して各地を転戦していく事になるのですが、、、

そんな中で、今回の舞台となる経山城(きょうやまじょう=岡山県総社市黒尾)は、吉備高原の南端にあり、北に複数の山々が連なる備中(びっちゅう=岡山県西部)屈指の要害で、天文年間(1532年〜1555年)に大内義隆(おおうちよしたか)によって築かれたとされます。

天文十二年(1543年)には、その大内義隆が出陣中に赤松(あかまつ)の配下の浦上宗景(うらがみむねかげ)攻められながらも死守していましたが、

ここに来て台頭して来た毛利の手中に落ち、当時は、その毛利傘下の中島元行(なかしまもとゆき)が城主を務めていたのです。

かくして元亀二年(1571年)、尼子再興を目指す戦いの一環として、大賀駿河(おおがするが)をはじめとする尼子の先手が、経山城を囲みました。

そして、まずは城内の中島に向けて使者を出し、
「知っての通り、ここは昔は尼子の領地やったよって、君が城ごと我らの傘下になれば、備中どころか、備前(びぜん=岡山県東南部)かて切り取り次第(戦で取った者勝ち)って事にするよん」
と誘いをかけます。

これを受けた経山城内では軍議が開かれ、
「投稿すべきか?否か?」
が話し合われましたが、

結果は、投稿派を押さえて「徹底抗戦」に決まりました。

とは言え、この時、経山城を守る城兵は、わずかに200ほど・・・まともに戦えば勝ち目はありません。

そこで中島は、
「承知しました。
以前は、この城を拠点に大内さんの傘下で戦っててメッチャ恩賞もろてたんですが、毛利さんトコに代ってからは全然ですねん。
城攻めを延期してくれはるんやったら、人質出して先陣に加わりまっせ」
との返事を尼子側へ・・・

しかし一方で、即座に小早川隆景(こばやかわたかかげ=毛利元就の三男)に使者を送ってこのピンチを知らせて援軍を要請し、密かに徹底抗戦の準備に入ります。

まずは、三方の谷が深く険しい城の地形を生かして、登山道の2か所を大木を横たえて道を塞ぎ、城兵50に農民兵200を添えて伏兵としました。

次に、城中からの合図によって、寄せる敵に横合いから突きかかる手勢を用意しておき、木々の間に数多くの紙旗と人形(ひとがた)を配置しました。

さらに城北の出崎から寺屋敷に向かう通路を造り、そこの桝形(ますがた=意図的に創った曲がる場所)に兵を配置するとともに、

もう一方の山続きの堀切(ほりきり=地面を掘った切通し)にも桝形を造り、人形を並べつつ農民を含む300ほどの伏兵も配置しました。

また、西方にある寺には水をたたえた塹壕を造り、通常使用している三つの橋をすべて落として、そこに繋がる門もピッタシ閉ざし、完全防備の体制を整えたのです。

Kikkounihikiryou こうして、すべての籠城準備を整えた元亀二年(1571年)4月18日

中島元行は城の突端に、亀甲に二引両の赤旗(たぶんこんな感じ?→)を掲げて、自身の徹底抗戦の意志を鮮明にするとともに、周辺の備中諸将に檄文を発したのでした。

これによって、ウソの返答に騙された事を知った尼子軍は、早速、経山城の攻撃に取り掛かります。

尼子勢は寄せ手を二手に分けて南門に押し寄せて一斉に弓矢を放ちますが、城内は静まり返って反応なし。。。

そこでさらに兵を進めて城門近くまで押し寄せると、城からは尾に松明を結び付けた暴れ馬が敵陣めがけて駆け寄るのに続き、170騎の精鋭が雑兵を率いて出陣し敵を散々に痛めつけます。

押されつつも、その後一旦体制を立て直した尼子軍は、再び城門へと迫りますが、城兵の守りは固く打ち破る事ができません。

なので、ここからは長期の籠城戦を意識して遠巻きに包囲しつつ夜を明かす事にします。

『常山紀談』では、
この時、中島元行の母が鎧の上に陣羽織を着て太刀を帯び、20人ばかりの婦人隊を従えて歩き、

元行が本丸にいる時は出丸に、元行が出丸にいる時には母が本丸を巡回して、自軍を引き締めるとともに敵を翻弄した…なんて逸話が書かれていますが、何となくドラマっぽい気がしないでもないww

それはさておき、
籠城戦を意識した尼子側とはうらはらに、中島元行は間髪入れず、その夜のうちに、風雨に紛れて城を出撃した夜襲組が、敵陣営最前線に火を放って大暴れした後、即座に撤退・・・

急襲に慌てた尼子兵が、すぐに追いかけると、
「計画通り…」
と言わんばかりに、途中で待ち伏せていた城兵の猛攻撃に遭ってしまい、皆押し返されたうえ雪崩のように水壕に落ちていったのだとか。。。

この合戦で経山城側が討ち取った首級は370級に及びました。

やむなく尼子勢は経山城の攻略を諦め佐井田城(さいだじょう=岡山県真庭市下中津井)へと後退して、新たなる作戦を練る事に・・・

この勝利によって、
近々の尼子再生の勢いに呑まれて、少しばかり尼子に傾きつつあった周辺備中の諸将も、これにより再び毛利傘下の意を確認する事となったのだとか。。。

ただし、今回のお話は、おおむね『中島記』による物なので、細かな事は本人申告で、チョイ盛ってる感がなきにしもあらずww(あまりに中島痛快勝利になってる気がするので…)

とにもかくにも、このあと2~3年は尼子再興に向けて各地を転戦する尼子勝久&山中鹿介ですが、ご存知のように毛利との直接対決でヤラレて京都へと逃走した天正二年(1574年)頃からは、

織田信長(おだのぶなが)の支援を受ける事となり、

その後は尼子VS毛利というよりは、織田VS毛利の一員として尼子勢は戦う事になります。

★参照ページ
  ●秀吉の上月城攻め>>
  ●信長に見捨てられた上月城>>
  ●上月城の攻防>>
  ●上月城が落城>>
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コメント

毛利元就が亡くなったのはこの2か月くらい後ですね。
そうなると支援の指示を出したのが小早川隆景だとすると、名目上(間接的に)采配をしたのは毛利輝元かな?

投稿: えびすこ | 2025年4月20日 (日) 14時00分

えびすこさん、こんばんは~

まぁ、そこは毛利の両川がウマくサポートされるのでは?

投稿: 茶々 | 2025年4月21日 (月) 02時05分

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