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2025年4月23日 (水)

加賀一向一揆の終焉~金沢御坊陥落

 

天正八年(1580年)4月23日、約100年続いた加賀一向一揆の拠点である金沢御坊が、織田信長配下の柴田勝家の攻撃によって陥落しました。

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約100年に渡って、時の政権が関与できない「百姓の持ちたる国」として君臨した加賀一向一揆(かがきっこういっき)。。。

※これまで、このブログでも何回か登場し、2008年には金沢御坊への攻撃開始の日付=3月9日のページ>>で陥落するとこまで書いちゃったために、おそらく内容がだだかぶりとなってしまいますが、とりあえずは、一揆経緯のまとめとともに金沢御坊の戦いを中心に書かせていただきます。

・‥…━━━☆

そもそもは加賀(かが=石川県南西部)守護(しゅご=幕府公認の県知事)だった富樫(とがし)で起こった兄=富樫政親(とがしまさちか)と弟=富樫幸千代(こうちよ)との後継者争いのせいで、

再三に渡って、軍費を徴収され、田畑を荒らされ、戦に駆り出され続けた人々が、ちょうどその頃に北陸を中心に布教活動を繰り広げていた本願寺蓮如(ほんがんじれんにょ)(2月25日参照>>)の説く教えに救われた事で、

集い、団結し、立ち上がったのが文明六年(1474年)に起こった最初の一揆=文明一揆(7月26日参照>>)でした。

その後、越中(えっちゅう=富山県)へ逃げたり、そこで敗れたりの紆余曲折(2月18日参照>>)ありながらも

長享二年(1488年)には富樫政親を居城の高尾城(たかおじょう・たこうじょう=石川県金沢市)にて自害(討死とも)させて勝利(6月9日=【長享一揆】参照>>)・・・ここで上記の「百姓の持ちたる国」となったわけです。

その後、
永正三年(1506年)の九頭竜川の戦い>>や、般若野の戦い>>など、
周辺諸国との戦いや内紛などを経験しつつ、

天文十五年(1546年)に金沢御坊(かなざわごぼう=尾山御坊:石川県金沢市)が建立され、以降、ここが加賀一向一揆の拠点となります。

ちなみに、教祖である蓮如は途中で北陸を退去して京都へ向かい(8月21日参照>>)、その後、蓮如の曾孫の証如(しょうにょ)の時代に京都を追われて(8月23日参照>>)、かつて蓮如が隠居する際に建立した大坂御坊へと移るのですが、ここがあの石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市:後の大阪城)と名を変えて、これまたもう一つの拠点となるのですが(11月24日参照>>)、それは別の話として・・・

この間、加賀一向一揆としては越前(えちぜん=福井県東部)一向一揆仲間とともに、朝倉(あさくら)(7月22日参照>>)や、かの般若野戦いで祖父を失った越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)(6月15日参照>>)などへの抵抗を繰り返していたわけですが、

やがて近江(おうみ=滋賀県)浅井(あざい)&越前の朝倉を倒して北陸方面へと進んで来るのが、あの織田信長(おだのぶなが)です(1月20日参照>>)

何度かの交戦の後、天正三年(1575年)の第二次天正越前一向一揆と呼ばれる戦いに勝利して越前を平定した信長(8月12日参照>>)

配下の柴田勝家(しばたかついえ)越前八郡を与えて北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)を居城に越前を統治する事を命じるとともに、

この勝家の目付役=世に言う「府中三人衆」として、
小丸城(こまるじょう=福井県越前市)佐々成政(さっさ なりまさ)
龍門寺城(りゅうもんじじょう=福井県越前市本町)不破光治(ふわみつはる)
そして府中城(ふちゅうじょう=福井県越前市)前田利家(まえだとしいえ)を配置したのです。

この配置は、すでに富山までやって来ている上杉謙信(3月17日参照>>)をけん制するとともに、もちろん、加賀一向一揆のせん滅をも見据えた差配であった事でしょう。

ここからの加賀一向一揆は、信長…というより柴田勝家との戦いという事になります。
(信長は石山>>に忙しいのでね(^o^;)

その後、未だくすぶる越前一向一揆を前田利家が抑えた(5月24日参照>>)

一向一揆と和睦した(5月18日参照>>)謙信が
飛騨(ひだ=岐阜県北部)(8月4日参照>>)
七尾(ななお=石川県七尾市)(9月13日参照>>)まで進んで、
あの手取川での対決(9月18日参照>>)となったりするのですが、

この手取川を最後に謙信殿はお亡くなりに(3月13日参照>>)・・・

さすがに、謙信に敬意を表してか?その年に勝家が北へと進む事はありませんでしたが、

翌年の天正七年(1579年)には、米の収穫時期に加賀へと侵攻します。

この年の8月9日(新暦だと9月半ばくらい)の、まさに実りの秋に加賀に出撃した柴田勝家は、阿多賀(あたか=安宅)本折(もとおり)小松(こまつ=いずれも石川県小松市)焼き払い、実ったばかりの稲穂を薙ぎ払って戻って来ます。

そう・・・いよいよ金沢御坊=本拠せん滅へ動き出したのです。

かくして、
さらに翌年の天正八年(1580年)閏3月9日、柴田勝家率いる織田軍は加賀へと侵入し、手取川を越え、宮腰(みやのこし=石川県金沢市金石)に陣を構えて周辺に火を放ちます。

一方の一揆勢は野々市(ののいち=石川県野々市市)という場所に川を前にして陣取ります。

各地に火を放ちながら前進する柴田勢は、やがて野々市の一揆勢を蹴散らし、数百艘の舟と兵糧をぶん捕って、さらに前進・・・

戦火は奥へ奥へと広がり、やむなく、ここの一揆勢は越中へと逃走します。

さらに柴田勢は越中との国境を越えて安養寺御坊(あんようじごぼう=富山県 小矢部市末)あたりまで攻め入り白山(はくさん)の麓の谷々の入口付近にまで火を放ちました。

その後、雇われ住職が籠る本越(ほんごし=石川県金沢市)寺内町に攻め入って占拠・・・ここでは激しい交戦の中で多くの一揆衆徒が討死しました。

さらに能登(のと=石川県北東部)へと向かい、土肥親真(どいちかざね)の籠る末森城(すえもりじょう=石川県羽咋郡宝達志水町)攻め、ここでも多くの名のある武士たちを討った後、

飯山(いいのやま=石川県羽咋市)に陣取る長連龍(ちょうつらたつ)連携して周辺に火を放って焼き尽くしました。

こうして加賀一向一揆の拠点を次々と落とし、金沢御坊を孤立させていったのです。

そしていよいよ天正八年(1580年)4月23日小立野(こだつの=石川県金沢市)方向から攻め入った佐久間盛政(さくまもりまさ)が一気に占拠・・・金沢御坊は陥落したのでした。

一部逃走した残党とは、このあと鳥越城(とりごえじょう=石川県白山市三坂町)にて一戦交え(11月17日参照>>)たり、多少のくすぶりを残す事になりますが、それはあくまで残党の最後のあがきのお話であって、

戦国の世に100年に渡って存在した「百姓の持ちたる国」は、この金沢御坊の落城で以って終焉を迎える事になったのです。

Image0-b今回の戦いの功績により、佐久間盛政は信長から石川加賀郡十三万石を与えられて金沢御坊に入り、ここに金沢城を築く事になります。

後に、この佐久間盛政が、豊臣秀吉(とよとみひでよし=羽柴秀吉)との、あの賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦い(4月21日参照>>)敗れて処刑された(5月12日参照>>)事で、

金沢城には前田利家が入る事になり、ご存知の加賀百万石の発展を遂げる事になるのは、もう少し先のお話…であります。
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コメント

こんにちわ~茶々様(^o^)Y

2022年に福井城→北ノ庄城跡地→越前大野城→富山城→春日山城をバイクでツーリングしながら観光しましたが、今回 登場した小丸城、龍門寺城、府中城なんかを見逃してしまいました...(tot)
(金沢城[金沢御坊]は以前 訪れたのでセーフ)

2022年に知っていれば歴史好きとしては訪れたのに...残念!

今日も面白い記事に感謝です!

投稿: DAI | 2025年4月27日 (日) 00時09分

DAIさん、こんばんは~

おぉ~行かれたんですか?

私は…
越前大野城は行って無いですね~

雲海がキレイなとこですよね?
いつか行きたいなぁ~って思ってます。

投稿: 茶々 | 2025年4月27日 (日) 01時12分

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