信長の甲州征伐の裏で能登が荒れる~長連龍VS長景連の棚木城の戦い
天正十年(1582年)5月22日、前田利家が留守の間に占領した能登棚木城に籠る長景連に、利家与力の長連龍が総攻撃をかけました。
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天正十年(1582年)・・・ご存知のように、この年は天下目前の織田信長(おだのぶなが)にとって運命の年。。。
そして、これまたご存知のように、この年の2月から、信長は甲州征伐(こうしゅうせいばつ)=甲斐(かい=山梨県)の武田勝頼(たけだかつより)との決戦に挑むことになるわけですが(2月9日参照>>)、
この頃、その武田と連合していたのが、あの上杉謙信(うえすぎけんしん)亡き後の後継者争いである御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)キッカケで勝頼の妹を娶って武田と同盟を結んだ越後(えちご=新潟県)の上杉景勝(かげかつ)です。
・・・で、
武田への攻撃中に背後を突かれる事を恐れた信長は、配下の北陸担当(4月23日参照>>)である
柴田勝家(しばたかついえ)
前田利家(まえだとしいえ)
佐々成政(さっさなりまさ)
佐久間盛政(さくまもりまさ)
らに対し、上杉へのけん制を強化するよう命じます。
もちろん、そんな事は重々承知の勝頼は、自らへ向ける信長の注意をできる限り分散させるべく、未だ残る北陸の一向一揆(いっこういっき=本願寺の帰依する武装団体)衆徒たちに蜂起を呼びかけるとともに、
「去る合戦で織田軍は大敗」
「信長もその戦いで討死した」
てな噂を流す虚報作戦に出ます。
これに乗っかったのが越中(えっちゅう=富山県)は日宮城(ひのみやじょう=富山県射水市)代だった小島職鎮(こじまもとしげ)と、小出城(こいでじょう=富山県富山市水)主の唐人親広(かろうどちかひろ)でした。
この機に乗じて挙兵した彼らが一揆衆を率いて、主君である神保長住(じんぼうながずみ=神保長職の嫡子?)が城番を務める富山城(とやまじょう=富山県富山市)を攻撃して占拠したのは3月11日の事でした(3月11日参照>>)。
とは言え、この3月11日と言う日は、かの武田勝頼が織田信長本隊の攻撃により天目山にて自害した日・・・
●【武田勝頼、天目山に散る】参照>>
●【勝頼夫人=北条夫人桂林院】参照>>
メールも電話も無い時代ですから、富山城を奪った彼らが武田の滅亡をすぐさま知る事は無かったでしょうが、一方の織田方の彼らは、そもそも武田が流した織田大敗の噂がウソな事は当然知ってるし、なんなら、滅亡の報告もほどなく伝わってくるはず・・・
案の定、すぐさま柴田らの北陸担当が動いて富山城を奪回し、武田滅亡で後ろ盾を失った小嶋らは、やむなく五箇山(ごかやま=富山県南砺市)方面へと逃げ去ったのでした。
その後の柴田勝家以下北陸織田勢は、この富山城奪還の勢いのまま、上杉方の最前線である魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)の包囲へと向かいます。
しかし、さすがに上杉の重要虚誕である魚津城は、その守りも固く容易に落とせません。
そんな中、この機に乗じて旧領を回復しようと動き出す武将が・・・
それは、かつて織田信長を後ろ盾にした長連龍(ちょうつらたつ)に負けて(10月22日参照>>)、能登(のと=石川県南西部)を追われて越後に逃げていた温井景隆(ぬくいかげたか)でした。
5月9日付けの書状にて
「この機会に能登に攻め入って手柄を立てなはれ~
ほたら、旧領(能登)を任す事はもちろん、それ以外にもご褒美満載よん!」
との確約を上杉景勝から受け取った温井景隆は、能登への乱入を決意します。
この景勝の手紙にある「この機会に…」というのは、上記の「魚津城の包囲戦が長引いている」←チャンス!という事。。。
そう、実は、この魚津城の包囲戦に参加している一人が、1年ほど前に信長から能登4郡を任されたばかりの前田利家です。
つまり、
「能登の担当者が留守の間にヤッちゃえよ」
と上杉景勝が温井景隆をけしかけたワケです。
とは言え、もちろん前田利家も戦国武将・・・当然、敵の動きは予想済みで、万が一の海上からの敵の侵入に備えて領地の百姓たちに警戒を呼びかけるとともに、利家の与力(よりき=利家の補助)としてともに魚津城の包囲についていた長連龍を能登の守りにと現地に戻します。
さらに、その軍監(ぐんかん=軍の監督)として大井直泰(おおいただやす)を、支援隊として富田景政(とだかげまさ)を派遣し、七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)代の前田安勝(やすかつ=利家の兄)に長連龍と協力して能登を固めるように要請しました。
ここまでの準備万端ぶりに、どうやら温井景隆も恐れをなしたようで
「能登で大暴れして景勝さんを助けたる!」
と息巻いていた勢いはどこえやら・・・その後は、能登に侵入して来る事はありませんでした。
しかし、別の所で動きが出ます。。。
それは、長連龍と同族(5世くらい前に枝分かれ)の長景連(かげつら)です。
長景連は、亡き上杉謙信が富山(3月17日参照>>)から飛騨(ひだ=岐阜県北部)(8月4日参照>>)、さらに七尾城(9月13日参照>>)へと攻め寄せた天正四年(1576年)~天正五年(1577年)にかけての一連の戦いで功績を挙げ、
周辺を手に入れた謙信によって正院城(しょういんじょう=石川県珠洲市正院町:正院川尻城とも)を与えられて城主を務めていたのですが、天正七年(1579年)に、かの温井景隆に攻められて越後に逃げ、以来、上杉家の世話になっていたのです。
そう…彼もまた、このチャンスに旧領=能登を回復しようと試みる一人だったのです。
しかも彼は、正院城落城の際に逃げた時の様子が世間に知れ渡っていて
「景連いくじなし」
と揶揄された事から、もうなりふり構わぬリベンジ燃えていたようで、
5月19日付けで残した書面には
「能登はまだ落ち着いてないけど、かと言うて遠方かた大軍で攻め寄せても容易に成功せーへん事は百も承知や。
まして、俺らのような少ない手勢では、おそらく本懐を遂げる事なんかできひんやろ。
しかし、このチャンスに、以前からの望みを捨てる事はできん」
とあり、命捨てる覚悟でこの一戦に挑む心持ちである事がうかがえます。
果たして、急きょ浪人たちを募集して軍船を仕立て、海路能登に入った長景連らは、その決死の覚悟が功を奏したのか?穴水(あなみず=石川県穴水町)や諸橋(もろはし=石川県鳳至郡)の前田舟手勢を打破して奥能登に上陸すると、またたく間に棚木城(たなぎじょう=石川県鳳珠郡能登町字宇出津)を落城させて、周辺の民家を焼き払いました。
これを受けて、すぐさま城を奪回すべく、千人ほどの軍勢を率いて棚木城へと向かう長連龍。。。
棚木城に到着した長連龍は同族のよしみから
「後詰め(後援)の無い城は、長く持ちこたえる事はできひんよって早く開城しなはれ。
今回の君の心意気は充分感じたから、これからは協力して温井討伐に当たろうや」
と声をかけます。
(エライやさしいなぁ~温井への態度と大違い)
しかし景連は、「たとえ叶わんでも全力を尽くして城を枕に討死する覚悟や!」と譲りません。
棚木城の戦い・要図↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>
かくして、天正十年(1582年)5月22日、長連龍は棚木城に総攻撃をかけたのです。
これを受けた景連は城を撃って出て、両者の激しい白兵戦が展開されます。
とは言え、所詮は多勢に無勢・・・景連方は次々と名のある武将が討たれていきます。
一時は、その気迫と決死の覚悟で以って踏ん張る場面もありましたが、やがて城門が破られ、連龍方の兵が城内へなだれ込みます。
そんな中で、刃こぼれが起きようと刀が折れようと果敢に戦う景連でしたが、戦ううちに連龍方の木村平左衛門(きむらへいざえもん)なる武将が景連に深手を負わせ、やがて何者かに首を討たれて棚木城は落城しました。
こうして
結局は景連の悲願は叶わなかったものの、その戦いぶりは見る者を圧倒し、景連の武将としての面目は保たれ、
「その汚名を返上するに値する戦いぶりだった」
として人々は称賛したのだとか。。。
翌5月23日に前田利家が、今回の長連龍の働きを絶賛し、討ち取った長景連の首を織田信長に送ったところ、
5月27日付けの書状にて
「去る22日に棚木を攻め落として、景連はじめ一人残らず討ち取るという見事な決着を見た事を、大変うれしく思ってます。
これからも油断なく頑張ってね!」
と、信長も大喜びだったようです。(『長家文書』)
しかし、ご存知のように、この2日後の29日に信長は上洛して本能寺(ほんのうじ= 京都府京都市中京区)に宿泊・・・(この年の5月は30日が無いので)迎えたその日の真夜中に、あの本能寺の変が起きる事になります(6月2日参照>>)。
魚津城を囲んでいた柴田勝家らが京都での異変を知るのは、その魚津城を陥落させた翌日の6月4日の事(6月3日参照>>)。。。
そして、信長の死を知って、やっぱり動き出すのが温井景隆・・・
やがて、
石動山天平寺(いするぎざんてんぴょうじ=石川県鹿島郡中能登町)の衆徒と組んだ温井らと、前田利家らがぶつかるのは、今回の棚木城の戦いから約1ヶ月後の6月26日の事ですが、
そのお話は
【石動荒山の戦い】のページ>>でどうぞm(_ _)m
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