万人恐怖な将軍=足利義教の恐怖の始まり…一色義貫殺害事件
永享十二年(1440年)5月15日、大和の陣中にて一色義貫が、同士の武田信栄に謀殺されました。
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一色義貫(いっしきよしつら)の一色氏(いっしきし)は、室町幕府の初代将軍となる足利尊氏(あしかがたかうじ)の高祖父=足利泰氏(やすうじ)の七男である公深(きみふか)が、元応元年(1319年)に三河国幡豆郡の吉良荘一色(愛知県西尾市付近)に移り住んで一色を名乗るようになったと言います。
つまり…将軍家の足利とは先祖が同じの親戚筋なわけです。
(足利泰氏の三男の足利頼氏(よりうじ)が尊氏の直系曾祖父です)
なので室町幕府政権下では、紆余曲折ありながらも九州探題(きゅうたんだい=鎮西:西国を管理する役)を務めたり、一国の守護(しゅご~県知事)を担ったり…と、なんだかんだの重要な役どころを担っていたわけで。。。
そんな中で父の死を受けて、わずか10歳で家督を継いだ一色義貫さん・・・と言っても、兄との間で後継者争いの一悶着があったようですが、
それでも、家督相続と同時に丹後(たんご=京都府北部)の守護と尾張知多(ちた=愛知県の知多半島)の郡主(ぐんしゅ=郡の守護)を担い、
その2年後か3年後に元服した時には、時の将軍である足利義持(よしもち=第4代)(5月8日参照>>)から「義」の一字を賜り、義範(よしのり)と名乗りました。
応永二十二年(1415年)に起こった伊勢(いせ=三重県北中部)の北畠満雅(きたばたけみつまさ)が起こした反乱(7月20日の真ん中あたり参照>>)では、総大将として見事に治め、
その翌年の上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)(10月2日参照>>)では、事件に絡んで幽閉の身となった足利義嗣(よしつぐ=将軍義持の弟で上杉禅秀の娘婿)(1月24日参照>>)の警固を担当するなど大活躍。。。
おかげで毎年のように治める地が増えて行き、この応永二十五年(1418年)には、若狭(わかさ=福井県南西部)・三河(みかわ=愛知県東部)・山城(やましろ=京都府南部)と、先の丹波と合わせて4か国の守護となり、
さらに赤松(あかまつ)・京極(きょうごく)・山名(やまな)と並んで都の治安維持を担う四職(ししき・ししょく)の1人となって、幕府中央に深く食い込むように・・・代々の一色家のなかでも、最も隆盛を極める事になりました。
しかし、そんなこんなの応永三十五年(1428年)、将軍義持が後継者を決めないまま死去(1月18日参照>>)した事で、急きょ、くじ引きによって決定した第6代将軍が青蓮院義円(しょうれんいんぎえん=義満の4男か5男)・・・
この方が還俗(げんぞく=僧侶から一般人に戻る事)して足利義教(よしのり)と名乗ったことから、、、
発音が同じ→
「義教=よしのり」と「義範=よしのり」
なので、ここで名を改めて「義貫=よしつら」と名乗ったのです。
しかし、これで一色義貫の人生が大きく変わるのです。
それは早くも、将軍に就任した翌年の永享二年(1430年)に、義教が近衛大将(このえのだいしょう)に昇進した事を祝って7月25日に祝賀パーティが開催される事になった時に問題が。。。
その祝賀会で開催される事になった一騎打ち行列の行進の順番の1番が畠山持国(はたけやまもちくに)だったのですが、この並び順に一色義貫が文句をつけたのです。
もちろん「ワイが1番ちゃうんか!」って事です。
とは言え持国の畠山家は足利一族でも代々管領(かんれい=将軍の補佐役)を輩出する管領家(かんれいけ)ですから、なんだかんだで格は一色より畠山の方が上なので、主役である義教さんの意向で以って、
「今回の先頭は畠山」
って事になってたわけですが、
義貫曰く
「50年前の3代将軍=足利義満さんの祝賀パーティ時は、祖父の一色詮範(あきのり)が先頭を務めたのに、今回は畠山の下みたいにされて、一色家の恥辱ですわ」
として、祝賀パーティをボイコットすると言って来たのです。
やむなく義教は山名時熙(やまなときひろ)を通じて一色義貫を説得・・・すると、
「ほな、出席しまっさ」
と返答して来たものの、
それには、
「今回は特別な配慮で以って、コッチの指示に従ってくれてありがとうな」
という内容の将軍自らの書面をくれるか、
あるいは
「皆の前で↑の内容の事を、自分に言うてほしい」
との条件を提示したのです。
臣下からの注文に将軍としてのプライドが許さぬ義教が、
「そんな条件、呑めるか!」
と突っぱねた事で、結局、一色義貫は儀式に参加せず・・・
この一色の暴挙には、義教も怒り心頭で、さすがにお咎め無しというわけにいかないだろうと幕府高官の間でも問題となりますが、
一方で、
このややこしい時期に事を大きくせず、なるべく穏便に済ませようと意見も多数。。。
しかし、肝心の一色義貫は、
「なんなら一戦交える覚悟や!」
と譲ろうとしません。
やむなく、ベテラン重臣の畠山満家(みついえ=持国の父)が間に入って周辺に根回ししつつ、自分自身と山名時熙の
「政治に関して私曲(しきょく=不正に自身の利益を得ようとする事)を持たず将軍に忠誠を誓う」
旨の起請文(きしょうも=誓いの文書)を提出して義教のご機嫌を取り、
翌日には、そこに細川持之(ほそかわもちゆき)や赤松満祐 (あかまつみつすけ)、さらに一色義貫が同様の起請文を提出した事で、義教のご機嫌は一気に回復し、事は丸く治まったのでした。
ところで上記のこのややこしい時期・・・というのは、
実は、この義教の将軍就任の前後には、そのドタバタ劇(くじ引きとか)のせいなのか?色々ややこしい事が起こっていたのです。
「くじ引きで決めたヤツなんか承認できるか!」
と朝廷が義教の将軍宣下を拒んでみたり、
(1年待たされる)
「くじ引きするんやったら俺も候補者の1人ちゃうん?」
と鎌倉公方(かまくらくぼう=関東公方とも)の足利持氏(もちうじ)が上洛しようとして関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方の補佐役)の上杉憲実(うえすぎのりざね)とモメてみたり、
伊勢国司の北畠満雅(きたばたけみつまさ)が南朝勢力の回復を企んでみたり(7月20日参照>>)、
近江(おうみ=滋賀県)で始まっていた土民(農民や都市の庶民)たちの不穏な動きが 正長の土一揆に発展したり(9月18日参照>>)、
周防(すおう=山口県)の大内氏と、豊後(ぶんご=大分県)の大友(おおとも)&筑前(ちくぜん=福岡県西部)の少弐(しょうに)連合軍がモメるわ、比叡山延暦寺の僧が神輿をかざして強訴(ごうそ=力づくの強引な訴え)して暴れるわ・・・
しかも、そのたんびに
話し合い→からの
意見が分かれ→からの
義教ブチ切れ→からの
「まぁまぁっまぁ…」と側近の説得がはじまり
てな事で、義教の心の内には徐々に鬱憤が溜まって行く事に。。。
さらにそこに、一旦大人しくなっていた関東の足利持氏が挙兵・・・これを許さぬ義教は永享十一年(1439年)2月、持氏を自刃に追い込みました。(【永享の乱】参照>>)
しかし、早くもその翌年=永享十二年(1440年)の3月に持氏の遺児を担ぎあげた関東の持氏派の武将たちが挙兵したのです。(【結城合戦】参照>>)
実はこの時、幕府の主力部隊は大和(やまと=奈良県)に釘付けだったのです。
それは
かつて義教と、くじ引きで将軍の座を争った大覚寺義昭(ぎしょう=義教の弟)が、この前年に京都を出奔して大和の天川(てんかわ=奈良県天川村)にて挙兵し、そこに後南朝残党(4月12日参照>>)が加わって反幕勢力を結集していたからでした。
とは言え、さすがに関東の異変は捨て置けず、義教も、長らく途絶えていた錦の御旗(にしきのみはた=官軍の証)と討伐の綸旨(りんじ=天皇の意を受けた命令書)を時の下賜を後花園天皇 (ごはなぞのてんのう=102代)に要請しています。
そんなこんなの永享十二年(1440年)5月15日、まだ大和の陣中に滞在していた一色義貫に事件が起こります。
同じく、大和の陣中にいた武田信栄(たけだのぶひで)に朝食に招待されて向ったところ、その席で襲われて側近もろとも、一色義貫は謀殺されてしまうのです。
しかも陣中に残っていた息子や家族たちも細川持常(ほそかわもちつね)に襲撃され、こちらも討死もしくは自害しました。
さらに翌日には義貫の甥っ子である一色教親(のりちか)が、京都の堀川にある義貫邸を襲撃して放火・・・一家皆殺しですやん(ToT)
…で、その全員死んだ一色家の家督を継ぐのは他ならぬ一色教親。。。
つまり、一色義貫は幕府=義教の意向で以って殺害されたわけですが、
これまで、幕府の中枢として活躍して来た一色義貫の最期としてはあんまりです。
その理由としては、永享の乱に持氏側として参戦した同族の一色時家(ときいえ)を、義貫が治める分国の三河(みかわ=愛知県東部)にて匿ったから・・・という事らしいですが、
それよりなにより、すでに義教の恐怖政治が始まっていたから・・・とも考えられますよね?
後に『万人恐怖』やら『魔将軍』やら『悪御所』やらと、恐ろしいニックネームで配下をビビらせる義教将軍(【嘉吉の乱】参照>>)。
もともと
「くじ引きで選ばれた」
という、どこか負い目を感じる形で将軍に就任し、
次々と起こる厄介な出来事に対峙する中で、
「自分がいつ追い落とされるか?」
の恐怖ばかりが先立って疑心暗鬼になって
「やられる前にやってしまう」
その始まりの一つとなってしまったのが、この一色義貫一家殺害事件なのかも知れません。
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