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2025年5月27日 (火)

開墾したら土地が持てる!墾田永年私財法の制定

 

天平十五年(743年)5月27日 、聖武天皇の勅が発せられ、墾田永年私財法が制定されました。

・・・・・・・

なぜか?かつては
Tシャツのデザインにもなってた
墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)

Kondeneinensizaihout なんだろ?
語呂が良いのか?
言葉の響きが良いのかな?

鳴くよウグイス平安京(794年)
いちごパンツで本能寺(1582年)
嫌でござるよペリーさん(1853年)
いくよ!一発真珠湾(1941年)
みたいな?
なんか似た雰囲気ありますよね~年号は入ってないけど(笑

もちろん、歴史用語として有名なだけでなく、この先、何百年にも渡る日本の土地制度の行く道を決めちゃうような大事な大事な法令である事も確か・・・

このブログでは、
以前に日本の土地制度の変化のページ>>でサラッと流れを書かせていただきましたが、本日は聖武天皇(しょうむてんのう=第45代)により(ちょく・みことのり=天皇の命令)が発せられた日…という事で、あらためてご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

そもそもは大化元年(645年)の乙巳(いっし)の変(6月12日参照>>)で政権を握った孝徳天皇(こうとくてんのう=第36代)(6月14日参照>>)が、大化の改新(みことのり)
「すべての土地は国の物=公地公民制」と定め、
(実際には大宝律令の701年の頃に制定されたと思われる)

国が、6歳以上の男女に口分田(くぶんでん)という農地を貸し出し、そこで採れた(そ=政府が税として集める素材)年貢として国が取り立てる方式でした。『班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)
(8月3日の真ん中あたりを参照>>)

とは言え、↑は、あくまで国が貸してる土地・・・
なので、もちろん死んだら返さなきゃならないし、
6年ごとに班田(農地の分配)が行われるので、そこでも一旦土地を返さなきゃいけないわけで。。。

すると次第に
「田んぼを頑張って耕しても自分の物にならんし」
「たっかい年貢をを取られるし」
「こんなん、やってられんわ」
ってなって、土地をほったらかして逃げたり、あるいは男性より女性の方が税金が安かったので性別を偽る者も出て来る始末。。。

これは困った…by政府

なんせ農民がしっかりと土地を耕してくれないと税は増えませんから・・・

そこで政府は、養老七年(723年)に
新たに土地を開墾(かいこん=荒地を農地にする)した者は、本人含めた3世代(本人→子供→孫)まで私有して良い事にします。『三世一身法(さんぜいっしんのほう)

「この国は俺のもの~」
ってなってた国が、条件付きとは言え、国民に土地の所有を認めたのですから、これは画期的!

俄然やる気がでる本人・・・そう、開墾する本人はやる気出ますが、期限が近づいて来る孫世代になったら、当然やる気はなくなってきて、結局は、以前の口分田と変わらない結果に・・・

…で、こうなったのが、ちょうど聖武天皇が次から次へと都を変えて迷走していた740年頃(12月15日参照>>)・・・

遷都(せんと=都を移すこと)にもお金かかるし、
結局、聖武天皇は大仏(東大寺)を建立して各地に国分寺建てて、
「仏教で以って国民一丸となって頑張ろう」
ってな気持ちになって、やっぱりお金がいる・・・

そこで
「なんとかせねば!」
政府がひねり出したのが、今回の墾田永年私財法というワケです。

ーーー以下『続日本紀』よりーーー

乙丑
詔曰
如聞 墾田依養老七年格
限滿之後 依例收授
由是 農夫怠倦 開地復荒
自今以後 任爲私財
無論三世一身 咸悉永年莫取

親王一品及一位五百町
二品及二位四百町
三品四品及三位三百町
四位二百町
五位百町
六位已下八位已上五十町
初位已下至于庶人十町
但郡司者 大領少領三十町
主政主帳十町
若有先給地過多茲限
便即還公
姦作隱欺科罪如法
國司在任之日 墾田一依前格

ーーー意訳ーーー

天平十五年(743年)5月27日、
天皇が詔にて言いはりました
聞くところに寄ると養老七年の法令で
期限が過ぎたら土地を返してもろてたけど
このために乗民が意欲を失い
せっかく開墾した土地が荒れてしまうとか
(なので)今後は開拓者の私有地を認め
三世までとか言わんと永久に返さんで良い
ただし(私有して良い限度は)
親王や一品&一位の者は500町
二品と二位は400町
三品や四品&三位は300町
四位は200町
五位は100町
六位以下で八位以上は50町
初位以下と庶民は10町とする
ただし、郡司については大領&少領は30町
主政と主帳は10町を限度とする
もし以前から土地持っててこの限度を超えてる場合は
速やかに国に返還するように
黙って隠し持ってたら法で罰するからな…

ーーーーーーーー

とまぁ…上記の通り、
飛鳥時代に律令制の骨格を形成してから、わずか40年ほどで律令制の基礎の一つである土地制度がコロコロ変わるという憂き目に遭いながらも、何とか墾田永年私財法にまで漕ぎつけました。

しかも、この墾田永年私財法は墾田の私有を認めながらも開墾制限がつけられ、あらたに墾田が輸租田(ゆそでん)として登録された事から、国家が口分田以外も含めた耕地全体を総合支配する事ができるようになったとも言えます。
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とは言え、やがては、この墾田永年私財法は国民の貧富の差を生んでしまう事になるのです。

そう・・・
人一人が個人で開墾できる耕地など、たかが知れてます。

しかも、そこには結局、重い税が圧し掛かって来るわけで、日々の生活もギリギリな状態なわけですが、

一方で、下人や奴婢を抱える貴族や、多くの僧侶や神職が属する寺社などは、持つ人手をフル活用して、どんどん新しい土地を開墾していく事になるのです。

そして、その広さは朝廷が想定していたよりも、はるかに大きな物となっていきます。

結局、個人でやってる農民たちは朝廷から与えられた口分田を捨てて寺社に身を寄せ、貴族や寺社の私有地は増え、

すると、またまた農民が逃げて貴族や寺社に・・・
ほんでまたまた貴族や寺社の私有地が・・・
という悪循環に陥り・・・

そうなると、貴族や寺社も、
もうはなから逃げ出した農民の生活の面倒を見るかわりに土地を開墾してもらう=小作人という形で更なる土地を開墾するように・・・

これが荘園(しょうえん)です。

そして増えて来た荘園を守るために武装した屈強な人たちが現れ、彼らが武士のはじまり~
となるのは、このもうチョイ先のお話…
という事で…今回はこのへんで・・・m(_ _)m
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