« 伊達政宗の右腕となった出戻り猛将~伊達成実 | トップページ | ホンネは?「関ヶ原で会いましょう」~徳川家康の会津征伐 »

2025年6月10日 (火)

ジッチャンの名にかけて~徳川家康の吉田城の戦い

 

永禄七年(1564年)6月10日、三河一向一揆を平定した徳川家康が、今川方の小原鎮実の守る吉田城への攻撃を開始しました。

・・・・・・・・

三河吉田城(よしだじょう=愛知県豊橋市今橋町)は、明応の政変(めいおうのせいへん)(4月22日参照>>)にて都を追われて再起を模索中の前将軍=足利義稙(あしかがよしたね=当時は義材)(12月25日参照>>)から

三河(みかわ=愛知県東部)旗頭(はたがしら=統率者)を約束された牧野古白(まきのこはく)が、西三河に勢力を持つ松平長親(まつだいらながちか=徳川家康の高祖父)や、その親戚筋の侵攻を警戒して永正2年(1505年)に構築したとされる城です。

その後、とある合戦で牧野古白が討死した後に次々と城主が入れ替わる中で、享禄二年(1529年)に德川家康(とくがわいえやす)ジッチャンである松平清康(きよやす)が落として(5月28日参照>>)一旦は三河統一を果たすも、ご存知のように、このジッチャンが殺害されて【森山崩れ】参照>>)

その息子(つまり家康の父ちゃん=広忠)が迷走する(3月6日参照>>)中で、入れ替わるように遠江(とおとうみ=静岡県西部)や三河にまで勢力をのばして来た駿河(するが=静岡県東部)今川義元(いまがわよしもと)(3月3日参照>>)の支配下となり、

その義元がこの城を東三河の重要拠点と考えて家臣の小原鎮実(おはらしげざね=大原資良と同一人物とされる)を城代として派遣し、周辺の国人(こくじん=地侍領主)たちを取り込んで支配力を高めていたのです。

しかし、そんなこんなの永禄三年(1560年)、その義元が桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市・名古屋市緑区)の戦いこの世を去ります(5月19日参照>>)

もちろん、義元が倒れても今川家には今川氏真(うじざね=義元の息子)という後継者がいますから、すぐさま吉田城がどうにかなるわけではなく、相変わらず小原鎮実が治める東三河の重要拠点には変わりなかったわけですが・・・

一方、この桶狭間のドサクサで、それまでの今川傘下から独立した徳川家康(当時は松平元康)(【桶狭間の家康】参照>>)は、亡きジッチャンの名に懸けて三河統一を目指すようになるわけです。

独立翌年には、小原鎮吉(しげよし=小原鎮実の息子?とも)糟屋善兵衛(かすやぜんべえ)らとともに守っていた長沢城(ながさわじょう=愛知県豊川市長沢町)を落とし(7月6日参照>>)

約半年後の永禄五年(1562年)1月には、かの義元を討って名を挙げた尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)清洲同盟(きよすどうめい)を結び(1月15日参照>>)、 

そのすぐ後には上ノ郷城(かみのごうじょう=愛知県蒲郡市 )を襲撃して、今川領に残して来た妻子(築山殿&信康&亀姫)を取り戻し(2月4日参照>>)・・・と順調に突き進む家康でしたが、

そこに降って湧いたのが永禄六年(1563年)の三河一向一揆(みかわいっこういっき)…と言っても、信長が石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)などと戦った全国レベルの一向一揆(8月2日参照>>)とは別クチで、

コチラは家康の敷く新しい三河の内政に不満を持つ者が浄土真宗本願寺派の三河三ヶ寺(本證寺・上宮寺・勝鬘寺)寺勢力と結託して起こした物ですが、家康の家臣の中にも浄土真宗の信者がたくさんいた事から、徳川家臣団が真っ二つに分かれて争う事になってしまったわけです。
(くわしくは【三河一向一揆~上和田の戦い】参照>>)

上記リンク↑の上和田の戦いで永禄七年(1564年)2月の終わり頃にようやく一向一揆を鎮めた家康。。。

再び外へと目を向け、かつてジッチャンが配下に収めた吉田城攻略に乗り出すのです。
(長い前置きでしたが、経緯を知るのも大事かと…m(_ _)m)

かくして一向一揆鎮圧から4ヶ月ほど経った永禄七年(1564年)6月10日、家康は吉田城攻めに取り掛かります。

この戦いで先陣を切ったのが、17歳になったばかりの本多忠勝(ほんだただかつ)・・・ご存知、徳川三傑徳川四天王徳川十六神将本多平八郎です。

彼は2年前の15歳の時に元服と同時に初陣を飾っていましたが、これは、上記の桶狭間の戦いの時の兵糧運び・・・もちろん、これも大事な役目で初陣には変わりませんが先の【桶狭間の家康】>>で書かせていただいたようにイケイケの合戦というよりは兵糧を守っての移動(もちろん敵が7ウジャウジャいる中ではありますが…)

その次は上記の三河一向一揆・・・これも、多くの本多一族が敵に回る中で、忠勝はわざわざ浄土真宗から浄土宗に改宗してまで家康に従っての戦いなので、命の危険もあったでしょうが、なんだかんだで身内同士の戦い。。。

そういう意味では、これが初めての本格的な対外戦・・・しかも城攻め。

そんな中で先陣を切り、一番槍の功名を挙げたのです。

この忠勝の姿に刺激されたのが蜂屋貞次(はちやさだつぐ=蜂屋半之丞)・・・同じように先陣を任されながら、
「忠勝に一番槍を取られた!」
と・・・

実は、この蜂屋貞次・・・1年チョイ前…上記の上ノ郷城を襲撃した後に家康が吉田城を攻めた1度目の城攻めの時にも先陣を任されて武功を挙げたものの、城を落とせずじまい。。。

しかも、その戦いの直後に起こった上記の三河一向一揆で、蜂屋貞次は一揆方に与して家康に背き、あの上和田の戦いでは大久保一族を逃して徹底抗戦・・・

さすがに戦場で家康と相対し、家康から
「蜂屋め!逃がさへんゾ」
とスゴまれて慌てて逃走・・・一揆終息後に何とか許され、徳川の家臣として再出発したばかりだったのです。

Hatiyasadatugu600a そんな蜂屋貞次は、本多忠勝よりはずっと年上の大の大人とは言え、まだ26歳の、

しかも
「参戦すれば必ず一番槍を取る」
と言われた猛将だったのです。

「2番手では意味ないんじゃぁ~」
とばかりに敵陣に突撃し、またたく間に二人を斬り、さらに敵方の河井正徳(かわいまさのり)なる武将に攻めかかりますが、

この河井なる武将は屈指の鉄砲の名手・・・

近づく貞次めがけて放たれた銃弾が貞次の眉間を貫き、蜂屋貞次はその場に倒れ、近くにいた従者によってその身は回収されたものの、帰らぬ人となってしまいました。
(ちなみに蜂屋さんも徳川十六神将です)

この様子を見た家康は、
「力攻めで落とせる城ではない」
と判断し、周辺に3つの砦を設けてジワジワと攻める持久戦へと方向転換します。

『今橋物語』によれば…

一つ目の
喜見寺砦(きけんじとりで=愛知県豊橋市花園町)
内藤信成(ないとうのぶなり=家康の異母弟)石川家成(いしかわいえなり)らをはじめとする350騎

小坂井糟塚砦(こさかいかすづかとりで=同豊橋市小坂井町)
大久保忠世(おおくぼただよ)ら200騎

二連木城(にれんぎじょう=同豊橋市仁連木町)
今川から離反したばかりの戸田重貞(とだしげさだ)らを配置。

さらに家康は、
需要な地点には堀を張り巡らし、逆茂木(さかもぎ)や柵を置き、吉田城への通路を遮断して、完璧な兵糧攻めを決行するのです。

こうなると、もはや時間の問題。。。

家康が長期戦に転換してから約9か月後の永禄八年(1565年)3月、観念した小原鎮実は家康に和睦を申し入れて吉田城は落城・・・

鎮実は駿河へと去って行きました。

Hirosige53yosida
広重の東海道五十三次に描かれた吉田城

こうして徳川の物となった吉田城でしたが、家康はここを本城とせず、重臣の酒井忠次(さかいただつぐ)に与え、以後、忠次は東三河の旗頭として地元の国人たちを統制する事になります。

ちなみに西三河の頭は、この戦いで喜見寺砦を守っていた石川家成・・・

とは言え、
二人が「両家老」と呼ばれて家臣団の頂点に立つのは、もう少し先のお話。。。という事で
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 伊達政宗の右腕となった出戻り猛将~伊達成実 | トップページ | ホンネは?「関ヶ原で会いましょう」~徳川家康の会津征伐 »

戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 伊達政宗の右腕となった出戻り猛将~伊達成実 | トップページ | ホンネは?「関ヶ原で会いましょう」~徳川家康の会津征伐 »