ホンネは?「関ヶ原で会いましょう」~徳川家康の会津征伐
慶長五年(1600年)6月18日、上杉景勝の上洛拒否を受けて会津攻めを決意した徳川家康が、会津に向けて伏見城を出陣しました。
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もはや言うまでもない関ヶ原の戦いですが…
生前の豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、五大老の1人である越後(えちご=新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)に会津(あいづ=福島県西部)への転封(てんぽう=領地替え)を命じたのは慶長三年(1598)1月の事。。。(1月10日参照>>)
しかし、そのわずか半年後に病に倒れ、8月に秀吉は帰らぬ帰らぬ人となってしまいます(8月9日参照>>)。
その後、秀吉の遺言通りに朝鮮半島からの撤退を開始し(11月20日参照>>)、出征していた武将たちが日本に戻ってくる頃には、事実上、五大老の筆頭であった徳川家康(とくがわいえやす)が、あれやこれやの采配を振る事になります。
もちろん、秀吉は亡くなっても、豊臣家にはその遺児である豊臣秀頼(ひでより)がいますので、あくまで、幼い秀頼の代理として実際に動く…という形ではありますが。。。
そんな秀頼が秀吉の遺言通りに生母の淀殿(よどどの=浅井茶々)とともに年が明けた慶長四年(1559年)1月10日に伏見城(ふしみじょう=京都府京都市伏見区)から大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市中央区)へ移りますが、
なぜかこの頃から家康は、秀吉が決めた「諸大名の無許可での縁組の禁止」に違反する行為と知りながら、
自身の六男である松平忠輝(まつだいらただてる)と伊達政宗(だてまさむね)の娘=五郎八姫(いろはひめ)や
自身の姪っ子=満天姫(まてひめ)と福島正則(ふくしままさのり)の養子など
数組の縁組を勝手に行います。
さすがに豊臣政権の三中老(さんちゅうろう=生駒親正・中村一氏・堀尾吉晴)や御大の前田利家(まえだとしいえ)らに注意されますが、そこをうまく取り繕いつつ、2月2日に誓詞(せいし=誓いの言葉)交わして反対派とは和睦しています。
ところが、その2ヶ月後の閏3月3日に前田利家が亡くなると(3月3日参照>>)、その翌日に朝鮮出兵(【碧蹄館の戦い】など参照>>)で実際に戦場で働いた武闘派の加藤清正(かとうきよまさ)ら7名が、文治派の石田三成(いしだみつなり)を襲撃する事件が起ります(3月4日参照>>)。
それを家康が仲介に入って三成の自宅(佐和山城)謹慎で事を収め、三成が去った伏見城へと入城する家康。。。(3月7日の後半部分参照>>)
やがて大坂城の西の丸にいた秀吉正室のおねさん=北政所(高台院)が剃髪して尼となり、京都三本木のお屋敷に引っ越しすると、家康は、その翌日の9月27日に伏見城から大坂城西の丸に入ります(9月27日参照>>)。
ちなみに、『看羊録』や『多聞院日記』など、いくつかの信ぴょう性の高い1っ級史料では、この西の丸入城の半月ほど前に家康は、秀吉の遺言だった淀殿との結婚をドタキャンされてます(12月16日参照>>)。
そして、その翌年がいよいよ慶長五年(1600年)です。
この年の4月、家康からの上洛要請を上杉景勝が拒否し(4月1日参照>>)、14日には上杉家の執政である直江兼続(なおえかねつぐ)が仲介役の西笑承兌(せいしょうじょうたい)に、世に言う『直江状』を送って主君の上洛拒否をダメ押しするわけです(4月14日参照>>)。
(ちなみに前田利家の奧さん=まつが江戸に向かうのは5月17日>>)
これを受けた徳川家康・・・まずは6月6日に諸大名を西の丸に集め、
「上杉景勝が上洛に応じず、謀反を企てているようだ」
と、皆の前で
「会津を攻める」宣言をします。
ただし、この間に家康が景勝を説得したり、穏便に済ますよう努力したような記録は無し。。。
なので一般的には、会津を攻める事は家康にとって既定路線で、むしろ石田三成の挙兵を誘うための誘い水だったのでは?と言われます。
なんせ、何もない中で三成を攻撃すれば、さすがに諸大名からも非難轟轟となるでしょうが、
「三成が攻撃して来たから討つ」
という大義名分があれば大丈夫・・・
家康にとって景勝の上洛拒否は願ったりかなったり・・・この舟に乗らない手はありません。
…で、会津攻め宣言のあと、すぐさま評定にて諸大名の配置を決定します。
まずは家康自らが総大将となり、江戸城(えどじょう=東京都千代田区)にいる息子=德川秀忠(ひだただ)とともに諸大名を率いて白河口(しらかわぐち)から侵攻する事を発表。。。
さらに上杉領に近い大名は、、、
佐竹義宣(さたけよしのぶ)が仙道口(せんどうぐち)から、
伊達政宗(だてまさむね)が信夫口(しのぶぐち)から、
最上義光(もがみよしあき)が米沢口(よねざわくち)から、
前田利長(としなが=利家長男)と堀秀治(ほりひではる)が津川口(つがわくち)から
それぞれ会津に侵攻する手はずとなったのです。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
この決定を受けて、佐竹&伊達&最上らは6月14日に大坂城を出立。
翌15日には、豊臣秀頼自らが家康の西の丸を訪れて、家康に金二万両と米二万石をプレゼントします。
(謀反を企ててる上杉を秀頼様に代って攻めるテイなのでね)
翌6月16日に、家康は佐野綱正(さのつなまさ)に西の丸の留守居役を命じ、伏見城へと移動。
かくして慶長五年(1600年)6月18日、家臣の鳥居元忠(とりいもとただ)・内藤家長(ないとういえなが)・松平家忠(まつだいらいえただ=深溝松平家)らを城に残し、家康は伏見城を出立・・・会津に向け東海道を東に向かったのでした。
この伏見城出立の時点から家康につき従っていたのは、
家臣の井伊直政(いいなおまさ)や本多忠勝(ほんだただかつ)ら3000余、
さらに外様の福島正則(ふくしままさのり)、池田輝政(いけだてるまさ)、山内一豊(やまうちかずとよ)ら5万5000余の軍勢だったとか。。。
また、その中には黒田長政(くろだながまさ)や藤堂高虎(とうどうたかとら)のように西国の大名の面々も・・・
こうして7月2日に江戸城に入った家康は、7月7日に諸大名饗応の宴会を開き、7月21日に会津に向けて江戸城を出陣したのでした。
とは言え、皆様ご存知のように、このあと家康本人による会津攻めは中止となるわけですが、
(伊達政宗とか最上義光とかは上杉と戦ってます)
それには、
7月11日に大谷吉継が石田三成に賛同>>して、
14日にはその吉継が北陸を駆け回>>ったり
翌15日には毛利輝元(もうりてるもと)が西軍総大将になる>>し、
17日には家康に従軍している細川忠興(ほそかわただおき)の嫁さんのガラシャが死ぬ>>し、
と家康が会津攻めを中止してUターンを決意する25日の小山評定>>まででも、ほぼ毎日メッチャ色々あるので、くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>でご確認くださいませm(_ _)m
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