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2025年7月16日 (水)

清正公の加藤家を潰したドッキリ好き三代目~加藤光広

 

寛永十年(1633年)7月16日、清正公に始まる加藤家の三代目加藤光広が亡くなりました。

・・・・・・・・・

加藤光広(かとうみつひろ=光正とも)は、あの有名な加藤清正(きよまさ)の息子である加藤忠広(ただひろ)の息子・・・つまり清正公の孫であり加藤家の三代目。

また、母の依姫(よりひめ=崇法院)は、蒲生秀行(がもうひでゆき)の娘で德川秀忠(とくがわひでただ=2代将軍)の養女ですが、その(つまり蒲生秀行の奧さん)振姫(ふりひめ=正清院)徳川家康(いえやす)の三女なので、加藤光広は家康の曾孫で秀忠の孫でもあったのです。

なのでめっちゃサラブレッド中のサラブレッド。。。

ただ、お父さんの加藤忠広さんも、わずか11歳で当主となった頼りなさから藩政は重臣による合議制だったり、家臣団の統率が取れずに訴訟沙汰になったり、嫁の管理もできずに奥さん同士が頻繁にモメたりしていて、ちょいヤバイ感じはあったのですが、

その血筋の良さに助けられ、なんだかんだで色々もみ消してもらって、国政を維持していたわけです。

ただし・・・
そんな親父さんに輪をかけてヤバかったのが、この三代目の光広さんだったのです。

時は第3代将軍=徳川家光(いえみつ=秀任の息子)の世となったある日、加藤光広は、自身に仕える江戸詰めの家来である広瀬庄兵衛(ひろせしょうべえ)なる人物に、あるドッキリを仕掛けます。

ま、この庄兵衛って人も、複数の古文書に「ウツケ」だの「魯鈍(ろどん)だの「臆病」だの「卑怯者」だのと思いっきり書かれてる人なので、大概な人物である事は確かなのですが、、、

その庄兵衛が非番の日を見計らって、光広は、わざわざ使者を出し、
「江戸屋敷の書院に、今すぐ来い!」
と呼び出します。

「何事か!」
と、慌ててやって来た庄兵衛が見た光景は…

Saihaiwofurubusyou 「主君、甲冑陣刀に采幣(さいはい)を持ちて
 正面上座に床几(しょうぎ)に腰かけ
 近習扈従(きんじゅうごしょう=側近)
 一同甲冑に身を固め

 左右に群列…庭には馬に鞍を置き
 旗指物を連ね 弓矢鉄砲槍長刀
 残る方なき支度なり」『法華寺記録』より)

あの大坂の陣(【大坂の陣の年表】>>)から15年ほども経ったこの時期に、完全装備の戦支度・・・今にも合戦が始まりそうな雰囲気の中、

おもむろに口を開いた光広は、
「今夜、急に思い立って、君に一方の大将を頼もうと思うので、至急用意せぃ!」
と庄兵衛に命じます。

「どちらへご出陣でっか?」
と、汗をふきふき庄兵衛が尋ねると、

「言うに及ばん、敵城はごく近くや!
 不意を突いてこそ勝利…いざ用意!」
って、ここは江戸屋敷・・・近い城と言えば江戸城(えどじょう=東京都千代田区)しかありません。

「若君、御謀反!」
慌てふためいて自宅へ駆け出す庄兵衛を見て、一同大笑いしたのだとか。。。

まぁ、先に書いたように庄兵衛さんも庄兵衛さんなので、日頃から評判の良くない家臣に、皆でお灸を据えた感じだったのかも知れませんが、

これに味をしめた光広さん。。。

今度は仲良くしている井上新左衛門(いのうえしんざえもん)なる旗本を、同様の手法でドッキリにかけようと企みます。

自身の名前や花押に加えて、勝手にウソの諸将の名前を書いたニセの謀反連判状をしたためて近臣に井上邸に届けさせ、井上家の者がそれを奥に持って行った間に、その近臣は姿を消す・・・謀反状を見て慌てふためく新左衛門を想像して、皆で笑おうと言うのです。

いやいや~
コレって、家中に隠しカメラセットして、慌てる様子を仕掛けた側が見られるからオモロイんちゃうん?
そこが1番の見どころやのに…想像するだけでオモロイんかな?

つくづく隠しカメラが無い事が残念・・・って言うてる場合では無い!

そう…受け取った新左衛門は慌てず騒がず、速やかに、この一件を老中土井利勝(どいとしかつ)に報告すると同時に、手紙を受け取った時に、その使者が従えていた小者(こもの=従者)と言葉を交わした使用人に、すぐさまその者を探すように命じます。

やがて20日ほど経って、その使用人が町でウロついていた従者を発見・・・捕まえて問いただすと、その者は自分が加藤家の家臣である臼杵平四郎(うすきへいしろう)の従者である事を白状し、井上家に書状を持って来た人物は臼杵である事が判明します。

早速、詮議が始まりますが
もともと、ただの悪ふざけのつもりの加藤光広は、幕府からの詮議に正直に答え、すべてを白状して平謝り・・・

そして幕府の取り調べでも本当に反逆を企てた形跡が無い事は判明したものの、もはや謝るだけでは済まされない状況に・・・

さすがにお咎め無しというわけにはいかず…
「父子共に配流せらる」『武林隠見録』より)

実際に、寛永九年(1632年)の5月22日、江戸に参勤途中の加藤忠広は品川宿にて止められて、
「江戸に入府するべからず」
と、

そのまま改易、そのまま酒井忠勝(さかいただかつ)の預かりとなって、その後は出羽(でわ)丸岡(まるおか=山形県鶴岡市)にて暮らす事となります。
(庄内藩の一部のような扱いらしい)

とまぁ…
ここで加藤家が取り潰しになったのは事実・・・

とは言え、その原因が、上記の加藤光広による悪ふざけドッキリにあるのかどうか?は、実のところ微妙なんです。

一説には、かの徳川忠長(ただなが=秀忠の三男で家光の弟)自殺した事件(12月6日参照>>)に連座しての事だという話も・・・
(上記の光広のウソ連判状に徳川忠長の名前があったとか無かったとか)

また、そもそも豊臣恩顧の外様大名である加藤家は、
「いつか潰す」
という改易ありきの状態で幕府内で密かに決まってい…という見方もあります。

とにもかくにも、今回の加藤家の改易を受けて、飛騨高山(ひだたかやま=岐阜県高山市)金森重頼(かなもりしげより)預かりとなった加藤光広は、

そのわずか1年後の寛永十年(1633年)7月16日、出羽に行った父よりも先に、未だ20歳前後の若さで、この配流先にて亡くなる事になります。

祖父の清正公に似て武闘派だったという光広さん・・・

そのあまりに早い死は、一説に加藤家が改易になった原因が自分にある事を思い悩んだ末の自刃だとも言われています。

…だとしたら、なんだか悲しい結末となってしまいました。。。

・‥…━━━☆

ところで、ここからは
あくまで個人的好みの話ですが・・・

かつて放送されていたテレビ時代劇『雪姫隠密道中記』(ゆきひめおんみつどうちゅうき)では、

主役の雪姫(演:片平なぎささん)が、取り潰しが決まった父=忠長の無実を訴えるために江戸に向かう(その道中でイロイロ事件起きる)…という設定でしたね。

『暴れん坊将軍』の火消し立ち上げと目安箱とか、
『水戸黄門』のお犬様の毛皮を綱吉に送る話とか、
『大岡越前』のオカン2名による子供取り合いとか、

時代劇黄金時代の作品には、勧善懲悪の娯楽時代劇なのにチョイチョイ歴史好きが喜ぶようなエピが散りばめられている場面があり、ずいぶんと楽しませていただきました~

ホント『雪姫隠密道中記』オモシロかったなぁv(^o^)v
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