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2025年7月 8日 (火)

日本の6分の1を持ってた山名の衰退と山名内訌

 

明応二年(1493年)7月8日、不満を持った息子の山名俊豊が、父の山名政豊を急襲しました。

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山名政豊(やまなまさとよ)は、応仁元年(1467年)に勃発したあの応仁の乱(おうにんおらん)西軍の総大将となった山名宗全(そうぜん=持豊)息子か孫とされる人物。。。

(※ややこしくなってる原因は…すでに家督を譲られて当主となっていた宗全の息子=山名教豊が応仁の乱勃発直後に陣没したために、宗全が当主に復帰し、その後文明四年=1472年に政豊を譲った事があって孫から養子になって後を継いだのか?実子として継いだのか?が史料によって異なる)

とにもかくにも、
かの応仁の乱は、東軍総大将細川勝元(ほそかわかつもと)山名宗全が相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事をキッカケにグダグダ状態になり、文明九年(1477年)に終結するわけですが(11月11日参照>>)

その和睦の話し合いをしたのが、勝元の息子=細川政元(まさもと)と、この山名政豊さんだったわけです。

…で、以前からチョクチョクお話させていただいてるように、この応仁の乱は京都を中心に各地の守護(しゅご=県知事)大名が東西に分かれて戦っていた事で、

その間に留守にしていた領国で、隣国からの侵攻があったり、留守を任していた守護代(しゅごだい=副知事)が守護を凌ぐほど強くなってしまったりという、

このあとの戦国を予感させるような出来事が、アチラコチラで起こってしまっていたわけです。

それは山名政豊の領国も例外ではありません。

そこそも山名宗全の時代に、近畿・山陰・山陽の広範囲に渡ってに11ヶ国もの領国を持ち、「六分一殿(ろくぶんのいちどの=全国60か国の6分の1を持ってるという意味)」と呼ばれ、名門管領家(かんれいけ=管領職を代々受け継ぐ家柄)細川(勝元さんちです)と並ぶ家柄になれたのは、

将軍=足利義教(あしかがよしのり=第6代室町幕府将軍)暗殺事件である嘉吉の乱(かきつのらん)(6月24日参照>>)の時に、暗殺犯である赤松満祐(あかまつみつすけ)討伐隊の主力として宗全が活躍した事で、

元からあった領国に加えて、その赤松の領地であった播磨(はりま・兵庫県南西部)美作(みまさか・岡山県東北部)備前(びぜん・岡山県東南部)などを得た事も大きかったわけです。

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ところが、その後の応仁の乱で細川方に近づいて復活を目指す赤松政則(まさのり=満祐の弟の孫)が、乱のドサクサでかつての領国の一部を占拠し始めていたのです。(参照↓)
  ●赤松正則の播磨奪回作戦>>
  ●摂津西部…兵庫津の争奪戦>>
  ●山名VS赤松・戦いの構図>>

この時の幕府(将軍は9代=義尚)の方針は、
「赤松が山名の領国に侵出した時は排除OKながら山名が積極的に赤松を攻撃する事はヨシとせず」
…だったようで、政豊は、この幕府の姿勢に大いに不満を抱いていたのだとか。。。

そんな中で起こった文明十五年(1483年)12月の真弓峠(まゆみとうげ=兵庫県朝来市生野町)の戦い(12月25日参照>>)や、翌文明十六年(1484年)1月の福岡(ふくおか=岡山県瀬戸内市長船町福岡)合戦(1月6日参照>>)では山名政豊が大勝利を収め、赤松政則を風前の灯に追い込んだのですが。。。

ところが、その後、この大敗で激おこの赤松の上司=浦上則宗(うらがみのりむね)を、なんとかなだめて一丸となって再挑戦した文明十七年(1485年)の2度目の真弓峠の戦いでは、赤松政則が勝利・・・

これを境に山名政豊は赤松に勝てなくなってしまうのです。

そして事実上の最終決戦となった長享二年(1488年)の英賀(あが=兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町)坂本(さかもと=兵庫県姫路市書写)の戦い(4月7日参照>>)にも敗れて戦意を喪失した政豊は、軍をそのままに自分だけ領国に帰っちゃったのです。

この、ヤル気なく撤退した事が家臣との間に亀裂を生むのです。

しかも、将軍自らが出陣した明応元年(1492年)の六角征討(ろっかくせいとう)(12月13日参照>>)には、上記の「幕府の姿勢への不満」から、政豊は幕府の出陣要請に応じず無断欠勤・・・

これで幕府からの印象も悪くなる始末。。。。

そうなると、山名家臣団や領国の国人(こくじん=地侍)衆から当然のように持ち上がって来るのが「当主交代案」です。

一門の山名時豊(ときとよ)を筆頭に、政豊を廃して嫡子(ちゃくし=後継者)山名俊豊(としとよ=政豊の次男)を擁立する動きが日に日に高まって来る中、政豊は、その俊豊を自身の名代として幕府に出仕させる事で、なんとか領国内での衝突を避けていたわけですが、

明応二年(1493年)の3月に、塩冶弥四郎(えんややしろう=山名傘下)上洛し、俊豊を伴って帰国してからは、もはや一触即発の状態となっていたのです。

かくして明応二年(1493年)7月8日、山名俊豊は自らを推す派の皆々とともに、父の政豊を襲撃するのです。

不意を突かれた政豊側は多くの犠牲者を出し
「山名一家之衆三人討死
 其外(そのほか)面衆十四五輩討死」『蔭凉軒日録』による

と、俊豊側の勝利に終わった事がわかります。

しかし、その後、態勢を立て直した政豊は、5日後の7月13日、
「塩冶周防守 子息彦次郎
 村上左京亮 其外面衆悉(ことごとく)討死」
と、今度は俊豊側が大敗し、

一時は、俊豊が
「もはやこれまで」
と思い詰めて自決した…なんて噂も流れたほどでしたが、

実際の俊豊は見事に戦場を脱出し、この敗戦後も、まだまだ政豊と争う事になります。

とは言え、この流れをキッカケに政豊は俊豊を廃嫡(はいちゃく=後継者でなくす事)して三男の山名致豊(むねとよ・おきとよ=俊豊の弟)嫡子と定めます。

これには、この3ヶ月ほど前に起こった明応の政変(めいおうのせいへん)(4月22日参照>>)が絡んでいるようで。。。

この明応の政変は、管領(かんれい=将軍の補佐役)の細川政元が、うっとぉしい足利義稙(よしたね=当時は義材・10代将軍)を、その留守中に勝手に廃して、自らの思い通りになる足利義澄(よしずみ=清晃:義稙の従兄弟)11代将軍に据えるというクーデターなわけですが、

京都滞在時代に義稙と好(よしみ)を通じていたのが俊豊で、政変後に義澄に近づいたのが政豊・・・てな事らしい。。。

おかげで家督争いは、クーデター後に将軍となった義澄派の政豊&致豊親子が優位に立ったのです。

それでも、翌明応三年(1494年)の11月頃までの俊豊は、但馬(たじま=兵庫県北部)に入って家臣を集めたり備後(びんご=広島県東部)にて毛利弘元もうりひろもと=元就の父)の援助を受けて一発逆転を狙ったり…という断片的な記録は残るものの、明応六年(1497年)以降は、その消息もバッタリ途絶えてしまうので、おそらくは…お亡くなりになった🙏ものと思われます。

一方、何とか山名の継承を保った政豊&致豊系統ですが、やがては、その守護の座はお飾り的な物になって守護代の垣屋(かきや)が実権を握るようになり、

致豊次男の山名祐豊(すけとよ)の時代に、これまた大きな変化がやって来るのですが、そのお話は【秀吉の但馬攻略~岩州城&竹田城の戦い】>>でどうぞm(_ _)m

ちなみに、今回の一連の内乱戦の舞台となった場所は、古文書には書かれておらず不明なのですが、当時の政豊が九日市城(ここのかいちじょう=兵庫県豊岡市九日市上町字御屋敷付近)を拠点としていたとされる事から、おそらく、その周辺であろうと考えられています。
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