豊臣秀吉の槍指南役~佐野房綱の唐沢山城奪回
慶長六年(1601年)7月2日 、豊臣秀吉の槍術指南を務めた剣豪の天徳寺了伯こと佐野房綱が死去しました。
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佐野房綱(さのふさつな)は、 唐沢山城(からさわやまじょう=栃木県佐野市)主を務めていた佐野泰綱(さのやすつな)の息子か、もしくは佐野豊綱(とよつな)の息子か、佐野宗綱(むねつな)の弟とされます。
右図→では省略してしまいましたが、
荒法師として知られる祐願寺(ゆうがんじ)が房綱の弟とされるので、房綱が泰綱の息子なら祐願寺も泰綱の息子だし、宗綱の弟だとしたら祐願寺も同じく、その父である佐野昌綱(まさつな)の息子という事になるわけですが、、、
とにもかくにも15代当主となった佐野昌綱に仕え、若い時は弟の祐願寺とともに剣術修行の旅に出て全国行脚しておりました。
その時の名は天徳寺宝衍(てんとくじほうえん)もしくは天徳寺了伯(てんとくじりょうはく)と号しており、佐野房綱は一旦途絶えた後に佐野家を継承する時に名乗ったものとも言われていますが、本日はややこしいので佐野房綱で統一します。
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以前に書かせていただいたように、この唐沢山城の佐野家は、関東管領(かんとうかんれい)となって(6月26日参照>>)幕府を後ろ盾に関東遠征にやってくる越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)と、自力で関東支配を達成しようとする北条(ほうじょう)との狭間で、常に揺れ動いていたわけですが…(10月23日参照>>)
そんな中で、一時的に上杉と和睦を結んだ時に、ともに塚原卜伝(つかはらぼくでん・卜傳)の新刀流(2月11日参照>>)を学んでいた佐野房綱兄弟は剣術の修行の旅に出ます。
弟の祐願寺は諸国行脚の旅の中で、はじめは甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)に仕え、次に上杉謙信に仕え、師範として謙信に長刀を教えていた時もあったようですが、なぜか?武田のスパイの容疑をかけられ、潔白を叫びつつ自害したと言います(直江兼続に討たれた説もあり)。
一方、佐野房綱は、いつしか京都の黒谷(くろだに=京都市左京区黒谷町)に住み、豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴)のお伽衆(おとぎしゅう=話相手の側近)に加わっていました。
もちろん、話相手だけではなく、弟と同様に剣術や槍術の指南役も務めていたわけですが、そんなこんなの天正十三年(1585年)、佐野昌綱の息子として佐野家を継いでいた佐野宗綱(むねつな=16代当主)が、隣国の長尾顕長(ながおあきなが)との合戦で討死してしまいます。
未だ子供は女の子しかいなかった宗綱・・・当然、そこに後継者問題が持ち上がります。
先に書かせていただいたように、この頃は天徳寺を号していた佐野房綱・・・つまり房綱は出家の身です。
とは言え、後継者がいなくなれば出家していた者でも還俗(げんぞく=出家した人が一般人に戻る事)して後を継ぐ事も、この時代はよくある事でしたので、当然、家臣の中に
「天徳寺が還俗して継ぐべき」
との意見が出ます。
しかし一方で、
上記の宗綱が亡くなった合戦・・・当主が亡くなる=負け戦なわけですが、この勝った側の長尾顕長という人が、実は北条氏に従属していたわけで…そこに北条氏政(ほうじょううじまさ)が介入して来るのです。
氏政の弟の北条氏忠(うじただ=先代氏康の六男)が宗綱の娘の婿養子となった佐野家を継ぐという案が浮上すると、佐野家臣の中にも北条の勢いに屈して、その意見に賛成する者も多数。。。
佐野家中は真っ二つに分かれる事になるのです。
とは言え、自らの意志で出家した身である佐野房綱自身は、還俗して家督を継ぐ気はあまりなく、懇意にしている佐竹義重(さたけよししげ)の息子を迎えて後を継がせたいと思っていたようですが、
こういった対立が11ヶ月ほど続く中でも北条は2度3度と佐野を攻めて来る・・・
そんな中、佐野房綱が秀吉に相談すると、秀吉は、
「そんなん北条の好きにさせとったらえぇねん」
と・・・
そう、この頃の秀吉は、京都に聚楽第(じゅらくてい)を構築し(2月23日参照>>)、島津攻めを計画し(4月6日参照>>)、暮れには太政大臣(だいじょうだいじん=朝廷の名誉職)になって豊臣の姓を賜る(12月19日参照>>)という、まさにイケイケ状態。
「そのうち小田原をヤッったるさかいに、今は大人しくしとき」
という事らしい。。。
(この時、秀吉が佐竹の継承を認めていたという説もあり)
やがて翌天正十四年(1586年)8月、とうとう唐沢山城を占拠した北条は、氏忠を亡き宗綱の養子&娘の婿として城主に据え、佐野を継がせたのです。
やむなく佐野房綱は、北条に24人の人質を差し出して和睦し、自らは重臣の山上道及(やまがみどうきゅう)とともに佐野家を出奔(しゅっぽん=家を出る)して秀吉のもとに身を寄せました。
果たして4年後の天正十八年(1590年)3月、豊臣秀吉による小田原征伐(おだわらせいばつ)が開始されます(3月29日参照>>)。
この時、佐野房綱は関東の詳細な地図を作製し、秀吉を大いに喜ばせたとか。。。
しかし、その一方で、佐野家の呼びかけに集まった兵は少なく、これには秀吉は落胆したのだとか。。。
やがて合戦が始まり、先鋒として小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)に迫る佐野房綱に気づいた北条氏直(うじなお=氏政の息子)は、怒り心頭となり、ただちに人質として囲っていた24人を引き出し城門の前で磔(はりつけ)にしたと言います。
腕に覚えのある房綱は、一心不乱に突入し、切崩し、突き進んで次々と城門を破ったのだとか。
そして
小田原落城(7月5日参照>>)・・・その後は奥州仕置き(11月24日参照>>)にも同行した佐野房綱。。。
やがて約束通り、佐野家の継承を秀吉から認められた房綱でしたが、継承した後、すぐさま自身に代る後継者選びに奔走・・・
2年後に、秀吉の家臣である富田信高(とみたのぶたか)の弟=信種(のぶたね)を養嗣子(ようしし=相続人となる養子)として迎え、その名を佐野信吉(さののぶよし)として、佐野家を継がせたのでした。
この前後、かつての北条氏忠に追放されていた旧家臣を呼び戻し、犠牲になった24人の人質を手厚く葬り、毎年の供養も欠かさなかったと言います。
かくして慶長六年(1601年)7月2日 、剣豪として名を馳せ、佐野家を取り戻す事に奔走した天徳寺こと佐野房綱は、44歳でこの世を去ります。
きっと
当主として領国経営するよりも、剣豪として諸国を巡る事の方が好きなお方だったのでしょうね~
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