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2025年7月23日 (水)

北条氏康による太田資正の岩付城追放

 

永禄七年(1564年)7月23日、北条氏康の支援を受けた太田氏資によって、父の太田資正が居城の岩付城を追放されました。

・・・・・・・

室町幕府政権下にて、京都にいる将軍に代って、領国である関東を支配する鎌倉公方(かまくらくぼう)の補佐役である関東管領(かんとうかんれい)職を務めていた扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)家の執事(しつじ=補佐役)として

江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を築いた(4月8日参照>>)事で知られる太田道灌(おおたどうかん)の曾孫とされる太田資正(おおたすけまさ)。。。

しかし、その太田道灌が主君であるはずの上杉定正(うえすぎさだまさ=扇谷上杉家)暗殺された(7月26日参照>>)事もあってか?太田資高(すけたか=太田道灌の孫)太田資頼(すけより=道灌の孫もしくは甥の子で資正の父)は、

関東に手を伸ばして来た北条氏綱(うじつな=早雲の息子)に寝返り・・・おかげで北条は大永四年(1524年)に上杉朝興(うえすぎともおき)江戸城を手に入れます(1月13日参照>>)

しかし、その上杉に援助を依頼された甲斐(かい=山梨県)武田信虎(たけだのぶとら)によって、居城である岩付城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市岩槻区:岩槻城)を攻められた太田資頼は、再び反・北条派へと逆戻り・・・

そのために、またまた北条に攻められ、大永五年(1525年)に岩付城は落城してしまいます(2月6日参照>>)

Ootasukemasa650a その後、父=資頼の後を継いで岩付城にて北条寄りの姿勢をとる兄の太田資顕(すけあき)に対し、

おおもとの主君である上杉家を推す弟の太田資正は、いつしか岩付城を出て、嫁の実家である難波田憲重(なんばだ・なばたのりしげ=善銀)松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)に身を置いたりしていましたが、

そんな中で起こったのが天文十五年(1546年)4月の河越夜戦(かわごえやせん)・・・(4月20日参照>>)

これは、
古河公方(こがくぼう=関東公方)足利晴氏(あしかがはるうじ)と管領の上杉憲政(のりまさ=山内上杉家)上杉朝定(ともさだ=扇谷上杉家)らがタッグを組んで、

北条氏康(ほうじょううじやす=氏綱の息子)の娘婿・北条綱成(つなしげ)が守る河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市:川越城)を包囲していたところに、北条からの夜襲を受けて朝定が討死してしまうほどにコテンパンにやられてしまった戦いです。

おかげで、もはや公方&管領上杉は虫の息・・・一方の北条は更に強大に。。。

その頃、太田家では
翌年に兄の死を受けた太田資正が自力で岩付城を奪取して太田家の家督を継ぎますが、この時のドタバタで多くの家臣が北条に流れてしまいます。

しかも、そんな中で更なる北条からの攻撃が・・・やむなく天文十七年(1548年)1月、太田資正は北条に降り、息子の太田氏資(うじすけ=当時は資房)が北条氏康の(長林院)娶って和議を結ぶ事になります。

やがて訪れた天文二十三年(1554年)3月、北条氏康は、これまで宿敵だった武田信玄(たけだしんげん=信虎の息子)駿河(するが=静岡県東部)今川義元(いまがわよしもと)善徳寺(ぜんとくじ=静岡県富士市今泉)にて会談・・・

世に言う甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)(3月3日参照>>)を結んでますます血気盛ん。

一方、上記の河越夜戦で負けて越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)のもとに身を寄せていた上杉憲政が、永禄二年(1559年)に上杉の家督と関東管領職を謙信に譲るのです(6月26日参照>>)

関東を平定するため、越後からチョイチョイ遠征して来る謙信に、
自力で関東支配を広げようとする北条・・・

これまで、このブログでもチョコチョコ書かせていただいてますが…この時の関東の諸将が、謙信につくのか?北条につくのか?

あのややこしい状況に太田資正も立たされる事になるのです。
 ★参考:すでにブログに登場している揺れ動く人たち↓
  ●小田氏治さん>>
  ●佐野昌綱さん>>
  ●成田長泰さん>>
  ●三田綱秀さん>>
  ●小山秀綱さん>>

なんせ謙信はたまにしか遠征に来ないので、上杉傘下になってると、謙信のいない間に北条に攻撃される・・・

けど、それで北条傘下になると、次回の遠征にやって来た謙信に攻撃される。。。わけで、

とは言えど、資正クンは、代々上杉執事の太田の子…そもそも北条傘下は本意ではない。。。

てな事で、謙信が永禄三年(1560年)の遠征で、北条の本拠である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を囲んだ時には(3月14日参照>>)太田資正もしっかり謙信からの要請に応じて上杉傘下として先鋒を務め、北条からの離反を露わにするのです。

もちろん、これを受けた北条からは、岩付城と松山城が度々攻撃される事になるのですが(11月27日参照>>)

その中で大きな痛手となったのは永禄七年(1564年)1月の第二次国府台(こうのだい=千葉県市川市)合戦でした。

北条と戦う里見義弘(さとみよしひろ)と結んで戦う太田資正でしたが、激戦の末に負けてしまうのです(1月8日参照>>)

残念ながら、この負け戦をキッカケに太田資正の勢力は衰退していく事になります。

その後、5月27日にも北条氏康が岩付に出陣した記録もありますが、『関八州古戦録』よれば、この頃に氏康は
「娘婿の氏資に太田の所領を安堵するので君は引退してくれへんかな?」
資正に隠居を迫るのです。

資正は、
「これは氏康の謀略…」
と感じながらも、やむなく同意するのですが、

その心の内は、もはや北条寄りになってしまった氏資との間に溝を感じて、もう一人の息子(次男)梶原政景(かじわらまさかげ=氏資の異母弟で古河公方奉公衆の梶原氏の養子となる)溺愛するようになっていたのだとか。。。

一方、太田氏資が北条傘下となった事を確信した氏康は、未だ傘下となっていない小山城(おやまじょう=栃木県小山市)長沼城(ながぬまじょう=栃木県真岡市)攻撃するよう氏資にもちかけます。

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しかし、その間にも太田資正は岩付城の奪回を試みるべく、政景を常陸(ひたち=茨城県)佐竹義昭(さたけよしあき)のもとに派遣し、自身は下野(しもつけ=栃木県)宇都宮広綱(うつのみやひろつな)合力を求めて向かうのです。

この動きを知った北条氏康は息子の北条氏政(うじまさ)太田大膳亮(だいぜんのすけ)以下200騎をつけて、守りが手薄な岩付城に派遣・・・

かくして永禄七年(1564年)7月23日、援軍を得た太田資正らが岩付城に迫りますが、外郭をビッシリ固めた北条勢は、資正を一歩たりとも城内に踏み入れさせる事無く追い散らし、資正は、そのまま岩付城を追放される事になってしまったのです。

これには、かの上杉謙信も7月29日付けの書状にて
『言語道断!」
と激怒している事から、

この岩付城を関東管領恩顧の太田資正が牛耳れない事が、かなり痛手であったであろう事がうかがえますね。

その後の資正は娘婿にあたる成田氏長(なりたうじなが)を頼って忍城(おしじょう=埼玉県行田市)に身を寄せながらも、翌永禄八年(1565年)には岩付城奪還のために夜襲をかけていますが、思うに任せず・・・

一方の北条も、岩付城を継いだ太田氏資との関係を強固にすべく、弟の潮田資忠(うしおだすけただ=資正五男)を取り込んだりなんかしています。

やがて佐竹義重(よししげ=義昭の息子)が北条傘下の片野城(かたのじょう=茨城県石岡市)を奪取した事を受けて、その城主として招かれた資正・・・そこに梶原政景も合流して、

ここを拠点に、関東の諸将が北条になびく中でも抵抗し続けるのですが、結局、2度と資正が岩付城に戻る事はありませんでした(9月8日参照>>)

…というのも、岩付城を継いだ太田氏資が、2年後の永禄十年(1567年)に起こった里見義弘との三船山(みふねやま=千葉県富津市と君津市・三舟山)の戦い(9月10日参照>>)殿(しんがり)を務め、25歳の若さで亡くなってしまうのです。。。

それを受けた北条氏政が息子(三男)源五郎(げんごろう=北条国増丸)と戦死した氏資の娘(小少将?)結婚させて太田を継がせ、

その後、その源五郎が早世すると、即座にその奥さん(つまり氏資の娘)と、すぐ下の息子=北条氏房(うじふさ=四男)とを結婚させて太田姓を名乗らせて城主とし、形の上では太田氏の名跡を継いではいるものの、

残念ながら、最終的に岩付城は北条の直轄の城となったしまったのでした。
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