天文法華の乱へ~高取城の戦い
天文元年(1532年)7月30日、越智氏の拠る高取城を奈良を暴れ回った一向一揆衆が攻めた天文法華の乱へと続く高取城の戦いがありました。
・・・・・・
応仁の乱の後に絶大な力を持った管領(かんれい=将軍の補佐役)の細川政元(ほそかわまさもと)亡き(6月23日参照>>)後に起こった3人の養子(澄元・澄之・高国)による後継者争いは、
享禄四年(1531年)6月の大物崩れ(だいもつくずれ)(6月8日参照>>)で、細川晴元(はるもと=澄元の息子)が細川高国(たかくに)に勝利した事によって晴元の一人勝ちとなり、ほぼ終止符が打たれますが、
その晴元が、敵対する相手を倒すために複数の宗教勢力の力を借りたりなんぞした事で、宗教同士の対立が露わになるのです。
なんせ当時の宗教勢力は武装した僧兵や衆徒をかかえるばかりか、一般信者も教祖様のひと声で武装して集まって来ますから、彼らを味方につける事で即座に何万もの兵を味方につけるのと同じですから・・・
…で、
最終的に天文五年(1536年)の天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)あたりまで続く一連の争いは、
享禄四年(1531年)の享禄の錯乱(きょうろくのさくらん:大小一揆)や、
天文元年(1532年)から4年間ほど続く細川と畠山を加えた天文の錯乱(てんぶんのさくらん:天文の乱)、
そして、その最後の天文法華の乱も重複する事から、これらを一つにまとめて論じて良いのか?
はたまた個々に展開していくべきなのか?は、
様々な意見があるようですが、
とりあえず、今回の日付である天文一揆高取城の戦い(てんぶんいっきたかとりじょうのたたかい)までの流れからお話を進めていきます。
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上記の通り、後継者争いに打ち勝って政権を握った細川晴元ですが、その後の方針の違いにより、政権奪取に最も後継してくれた阿波(あわ=徳島県)にいた頃からの家臣である三好元長(みよし もとなが=長慶の父)との間に亀裂が生じます。
そこに割って入ったのが河内(かわち=大阪府東部)・山城(やましろ=京都府南部)の守護(しゅご=県知事)であり、室町幕府の管領家でもある畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)から独立を図りたい山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)=木沢長政(きざわながまさ)。
ここに
「細川晴元&木沢長政」VS「畠山義堯&三好元長」
の構図ができるわけですが、
三好元長が、当時一大宗教であった法華宗(ほっけしゅう=日蓮宗)の大口スポンサーであった事から、晴元は法華宗と対立する山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)第10世法主=証如(しょうにょ=蓮如の曾孫)に救援を要請し、彼ら一向一揆(いっこういっき)の力を借りて三好元長を自害に追い込みます。
しかし河内で暴れ回った一向一揆衆は、その勢いのまま大和(やまと=奈良県)へとなだれ込み、興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)の塔頭(たっちゅう=大きな寺院に付属する坊寺院)に次々と放火・・・春日神社(かすがじんじゃ=現在の春日大社)にも乱入して蔵や神主さんの家まで破壊したのです。
やむなく奈良在住の興福寺宗徒たちが、高取城(たかとりじょう=奈良県高市郡高取町)のある南方へ落ちる中、奈良市中はすっかり焦土と化してしまったのです。
これを天文法華の乱大和一向一揆(やまといっこういっき)(7月17日参照>>)と呼びます。
また、この時、畠山の要請により参戦していた大和国衆の筒井順興(つついじゅんこう=順慶の祖父)でしたが、一向一揆の勢いになす術無く・・・速やかに撤退して居城の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)に戻るのが精いっぱいでした。
そして、興福寺を追われた彼らに一向一揆が追い打ちをかけたのが、その半月後の天文元年(1532年)7月30日の事。
この頃の高取城は、大和の有力国衆の一つであった越智(おち)氏(越智については9月25日参照>>)が本拠である越智城(おちじょう=同高取町)の詰城(つめのしろ=万が一越智本城が落ちた時に一旦退いて最後の決戦を挑むための城)として役割を持っていた城で、
そもそもは、あの南北朝時代に護良親王(もりながしんのう=後醍醐天皇の皇子)挙兵のために越智氏の先祖が構築し、その縄張りを楠木正成(くすのきまさしげ)(5月25日参照>>)が設計したとも言われる堅城です。
●位置関係図→
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
もちろん、その時代とはすでに異なる造りになっていた物と思われますが、当時も、土をかき上げて土塁を施した簡素な物ではあるものの、尾根づたいにいくつもの曲輪を設け、天然の要害を利用した空堀がいくつも重なる鉄壁の城だったとされています。
そんな高取城に熱狂的な一揆衆が武器を振りかざし、山々に響き渡るほどの喚声をあげながらなだれ込んで来たのです。
しかし案の定、天然の要害を誇る堅城に烏合の衆である一揆勢は苦戦するのです。
それでも渓谷を埋めるほどの数を得る一揆衆は山肌をよじ登り、必死の抵抗を続ける城方と激しい交戦を繰り返しますが、
そこに登場したのが高取城を救援すべくやって来た筒井の軍と、それに協力する十市(とおち)衆(十市については10月19日参照>>)。
高取城にへばりつく一揆衆を、猛然と背後から襲撃します。
ここぞ!とばかりに城兵も前に出て、一揆勢に多くの死傷者が出た8月9日・・・一揆勢はようやく高取城の囲みを解いて敗走・・・それを追撃した越智勢は、数百人を撃ち取ったと言います。
この時、一向一揆に協力した奈良の住人は、およそ6万人いたと言われ、このために年貢の徴収ができなかった中央政府が大いに怒り、残党を極刑にしたのだとか。。。
結果的に高取城が守られた事で、一向一揆は去り、逃げ込んだ興福寺の衆徒は助かったわけですが、今回の出来事によって、これまで大和の一大巨頭であった興福寺は勢いを失い、
やがて奈良の戦国も「武士の時代」となていくのですが。。。
その前に、
今回の、この一向一揆の勢いを恐れた細川晴元は、今度は、その法華宗に
「本願寺を潰してチョ」
と依頼。。。
約半月後の8月23日に、今度は、山科本願寺が攻撃を受ける事になるのです(8月23日参照>>)。
さらに翌年には、京都を追われたお引越し先の石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)も攻撃。。。(5月2日参照>>)
「これでようやく安心」by晴元・・・と思いきや、
次は本願寺攻撃を手伝ってくれた法華宗が強くなり、その法華一揆が怖い。。。
…なもんで、今度は比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ=滋賀県大津市:天台宗)と結託して、法華宗を攻撃・・・これが、冒頭にお話した京都市中を焦土化させる天文法華の乱(7月27日参照>>)…という事になります。
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