北条早雲の三河征討~岩津城の戦いと今橋合戦
永正三年(1506年)8月21日、今川氏親の命を受けた北条早雲が松平長親の属城である岩津城を攻撃しました。
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先代の今川義忠(いまがわよしただ=今川義元の祖父)が、文明八年(1476年)の4月に塩買坂(しょうかいざか=静岡県菊川市)にて討死してしまった(4月6日参照>>)事で、未だ幼き息子=今川氏親(うじちか=当時は龍王丸)と、その従兄弟の小鹿範満(おしかのりみつ)の間で持ち上がった家督争いを受けて、
室町幕府奉公衆として将軍家に仕えていた北条早雲(ほうじょうそううん=当時は伊勢盛)が、前将軍=足利義政(あしかがよしまさ=第8代将軍)の命を受け、
「甥っ子(早雲の姉か妹の息子が氏親)のピンチ」
とばかりに駿河(するが=静岡県東部)へ駆けつけ、
その仲介役となり、最終的に氏親への家督継承を実現させたのは長享元年(1487年)11月の事でした(11月9日参照>>)。
以後、早雲は京都に戻る事無く、遠江(とおとうみ=静岡県西部)へと勢力をのばす氏親のサポートをしつつ、自身も関東へと手を伸ばして行く事にになるわけですが、
●【北条早雲の伊豆討ち入り】>>
●【北条早雲が小田原城奪取】>>
そんな中、氏親と早雲が揃って武蔵(むさし=東京都)へと出陣し、遠江の支配が手薄になった事を受けて、西三河(みかわ=愛知県東部)の松平長親(まつだいらながちか=徳川家康の高祖父)の動きが活発化し、東三河から、さらにその東の遠江をうかがう様子を見せて来ます。
その動きが決定的となったのは、松平長親が戸田憲光(とだのりみつ)の田原城(たはらじょう=愛知県田原市)を攻めようと画策した事で、戸田憲光からの救援要請を受けた今川氏親は、遠江の支配を安定的にするためにも、三河に出陣するよう早雲に命じたのです。
かくして永正三年(1506年)8月20日、今川の支配下にある駿河&遠江&東三河の3ヶ国から集めた1万余名の軍勢を率いた北条早雲は、大樹寺(だいじゅじ=愛知県岡崎市)を本陣と定めた後、松平長親の属城である岩津城(いわづじょう=愛知県岡崎市岩津町)を囲み、 翌8月21日に攻撃を開始したのです。
これに対し、安祥城(あんしょうじょう=愛知県安城市安城町)から出陣した松平長親の軍は、わずか雑兵500余り。。。
松平軍が筒針(つつはり)から河崎(かわさき)手前で矢作川(やはぎがわ)を渡る頃には、その進軍の情報も北条早雲のもとに届き、
「ならば準備をせよ!戦うゾ!敵は少数や」
と喜び、進み出た。。。と、
ところが、そこに背後に回った松平軍が到着した事で、なぜか?早雲は兵を退いてしまうのです。

岩津城の戦い関連要図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
とまぁ、このよくわからない状況は、ひとえに、上記の内容が『三河物語』が出典ゆえ。。。かな?
なんせ、この『三河物語』は、ご存知のように天下のご意見番(古っ:一心太助世代w)=大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん=大久保忠教)が記した德川家の史書なので、どうしても神君家康公バンザイな徳川寄りになっちゃうわけで。。。
…てな事で、早雲が1万で長親が500という数字は、かなり怪しい。。。
ただ、今回の早雲による岩津城攻撃と、さほど戦わないうちに兵を退いた事は、他の文献にも見受けられるし、この時期に西三河に侵攻していた事も確か
(自分で手紙にも書いている→
くわしくはコチラを参照>>)
なので、、どちらかというと、松平軍が来たから撤退した
…というよりは、
なんらかの別の意図があって、その矛先を岩津城から別の場所に変更した感も無きにしも非ず・・・
なんせ、この5日後の8月26日には、先の戸田憲光と敵対する牧野古白(まきのこはく=成時)の今橋城(いまはしじょう=愛知県豊橋市今橋町:後に吉田城・豊橋城)を攻めているのですから。。。
とは言え、この今橋城は容易には落ちませんでした。
なんせ、上記の9月21日付けの手紙でも、自分自身で「絶賛攻撃中」と言ってますからね。
『今橋物語』によれば10月19日にも北条早雲が今橋城を攻めたと記録されており、この頃から本格的な城攻めが開始されたとみられています。
結局、これらの戦いで牧野古白は討死し、今橋城は今川の物となるのですが、その日付は永正三年(1506年)の11月4日もしくは11月12日とされています。
とは言え、
『寛政重修諸家譜』には、
「この時、今橋城を攻めたのは松平長親」
と、まったく逆の事が書かれており、なかなかに謎が残る北条早雲の三河征討ではありますが、
結局、松平の制圧を目指して三河入りした北条早雲が、結果的に目的を果たす事無く今川領へと戻った事は確かなようですし、この後に三河周辺において松平家の求心力が高まった事も事実であろうと思われます。
ちなみに、今回、今川の手に落ちた今橋城ですが、牧野古白の後を継いだ牧野信成(のぶしげ)が奪回し、今度は松平長親の孫である松平清康(きよやす=家康の祖父)と戦う事になるのですが、そのお話は享禄二年(1529年)5月28日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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