承久の乱の戦後処理~いきなりの後堀河天皇
天福二年(1234年)8月6日、承久の乱の後に立てられた後堀河天皇が崩御されました。
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第86代天皇の後堀河天皇(ごほりかわてんのう=第86代)は、高倉天皇(たかくらてんのう=第80代)の第2皇子であった守貞親王(もりさだしんのう)の第3皇子。。。
父の守貞親王は、あの源平合戦で平家が都落ち(7月25日参照>>)した時に、幼少の天皇であった兄(異母兄)の安徳天皇(あんとくてんのう=第81代:高倉天皇の第1皇子)(2007年3月24日参照>>)とともに、平家と一緒に西海へと落ちた人です。
なので、壇ノ浦(2008年3月24日参照>>)で生き残って都に戻ったものの、源氏の世=鎌倉時代となった時に出家し行助入道親王(ぎょうじょ にゅうどう しんのう)と名乗っておられました。
ところが・・・
ご存知、あの承久の乱(じょうきゅうのらん)です。
承久の乱は、前年に鎌倉幕府第3代将軍の源実朝(みなもとのさねとも)が暗殺され(1月27日参照>>)、幕府を開いた源頼朝(よりとも)の直系が絶え、
その後継者に親王将軍(しんのうしょうぐん=天皇家出身の将軍)(2月4日参照>>)を選ぶしか無かった幕府のゴタゴタをキッカケに、
「今がチャンス!」
と思った後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)が、
承久三年(1221年)5月に、
時の執権(しっけん=将軍補佐)である北条義時(ほうじょうよしとき)追討の院宣(いんぜん=天皇家の命令書)を出した事に始まります(5月15日参照>>)。
つまり天皇家が幕府に「No!」を突き付けたわけです。
★乱の経過
├5月15日:北条義時討伐の院宣発給>>
├5月22日:北条泰時が京へ進発>>
├5月29日:幕府軍の出撃を京方が知る>>
├6月 6日:美濃の戦いに幕府方が勝利>>
└6月14日:瀬田・宇治の戦いに幕府方が勝利>>
…で、この↑通り、
結果的に鎌倉幕府側の勝利に終わった乱でしたが(6月23日参照>>)、
反旗を翻した後鳥羽上皇に、土御門上皇(つちみかどじょうこう=後鳥羽の第1皇子・83代天皇)や順徳上皇(じゅんとくじょうこう=後鳥羽の第3皇子・84代天皇)が同調していたから大変・・・
また、時の天皇は仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう=順徳の第4皇子:第85代)でしたが、これも実は、上記の上皇たちが事を起こしやすくするために、まだ何もわからない幼き天皇に皇位を譲ったって事なわけですが、
何もわからない…とは言え、こ状況で、そのまま天皇の座に据えておくわけにはいかず、幕府は新しい天皇を立てる事になるのですが・・・
上記の通り、天皇家の人が全員、乱に関わってたわけで・・・その戦後処理として
後鳥羽上皇は隠岐(おき=島根県隠岐の島)へ(2月22日参照>>)、
土御門上皇は土佐(とさ=高知県=後に阿波)へ(10月11日参照>>)、
順徳上皇は佐渡(さど=新潟県佐渡島)へ(12月28日参照>>)、
と、それぞれ配流・・・
仲恭天皇は廃位され、実家にお戻りいただく事に(4月20日参照>>)
幕府としては当然の事ながら、次の天皇は後鳥羽上皇の直系からは選びたく無いわけで…
そうなると…誰を???…て事になる。
そもそも、平家が滅亡した時に、平家とともに西海に沈んだ安徳天皇の後を、弟(第4皇子)の後鳥羽天皇が継ぐ事になったのは、平家の都落ちについて行って無かったからで。。。
★天皇系図→
(四条天皇のページ>>にupした物ですが…ご参考に…)
やむなく幕府は、平家の都落ちに同行したものの、当時はまだ幼く、
それは「平家による連行」であったとして、
高倉天皇の第2皇子=守貞親王を治天の君(ちてんのきみ=の古代~中世に皇室 の当主として政務の実権を握った 天皇もしくは上皇)として院政を敷く事にするのです。
この時、
「せめいだしまいらせて、おがみまいらせて」
(無理やり拝み倒して)『賀茂日記』より
みたり、
「武家要用の時は返し給ふ…」
(幕府が入用の時は返してね)『武家年代記』より
の条件付きであはるものの、後鳥羽上皇の所領をそっくりそのまま進呈…など…
おそらくは乗り気では無かったであろう守貞親王を説得して後高倉院(ごたかくらいん)として、その息子である後堀河天皇を即位させたのです。
承久三年(1221年)7月9日践祚(せんそ=天皇位を継ぐ)・・・この時、後堀河天皇は、わずか10歳。
天皇の位についた事が無い人が、治天の君として院政を行うのも始めてならば、
皇位継承に天皇家&摂関家&公卿らの合議が機能せずに幕府主導による決定も、前代未聞の事でした。
その2年後の貞応二年(1223年)5月に父の守貞親王が亡くなった後は、後堀川天皇の親政となる一方で、
さらに翌年の元仁元年(1224年)6月には北条義時が亡くなり(6月13日参照>>)、幕府の中心は、その長男の北条泰時(やすとき)と、義時弟の北条時房(ときふさ)に移り、
貞永元年(1232年)8月には日本初の武家法である御成敗式目(ごせいばいしきもく)が制定されます(8月10日参照>>)。
なので、
後堀河天皇の親政とは言え、もはや主導権は幕府だし、もともとご自身も病弱だし・・・で、結局は、もっぱら天皇棚の上の嫁の座取り合いに翻弄させられる後堀河天皇。。。
なんせ、いくら幕府強しと言えど、公家にとっては昔ながらの天皇の外戚(がいせき=母方の親戚)のイスが欲しいわけで、、、
(↑藤原道長の隆盛再び…)
三条公房(さんじょうきんふさ)の娘=有子(ゆうし・ありこ)が中宮(ちゅうぐう=皇后並み)になったかと思いきや、それを退出させて関白(かんぱく=成人天皇の補佐)=近衛家実(このえいえざね)が娘の長子(ながこ)を中宮に押し立てる中で、
今度は、かの承久の乱で一旦失脚していた九条道家(くじょうみちいえ)がアノ手コノ手で盛り返して近衛家実を引きずり降ろして自身が関白に就任して、長子を追い出し、娘の竴子(しゅんし・よしこ)を中宮に。。。
結局、後堀河天皇は貞永元年(1232年)に、竴子との間にもうけた、わずか2歳の第1皇子に譲位し、自ら院政を行う事にしますが、それから2年足らずの天福二年(1234年)8月6日、後堀河天皇は23歳という若さで崩御してしまうのです。
皇后の竴子さんも、この前年に亡くなっている事から、巷では後鳥羽上皇の怨念・・・と囁かれたのだとか。。。
(…って、上皇生きとるがな(><)~あ、生霊ね。。。)
…で、この譲位された、わずか2歳の天皇が、あの四条天皇(しじょうてんのう=第87代)・・・
「あの」って言っちゃったのは、この方がまたまた若くしてお隠れになり、京洛政変(けいらくせいへん)と呼ばれるモメ事が起っちゃうので。。。
ま…そのお話は、
やはり四条天皇のページ>>で…今回とかなり内容カブッてますが、ご理解のほど。。。m(_ _)m
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