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2025年8月14日 (木)

放浪しながらも血筋を未来へ繋いだ将軍~足利義澄

 

永正八年(1511年)8月14日 、室町幕府第11代将軍足利義澄が近江にて死去しました。
(足利義澄さんは、これまでも色んな場面でチョイチョイ登場していますので内容が他ページとカブッてる部分がありますがご了承くださいませ)

・・・・・・・

足利義澄(あしかがよしずみ)室町幕府の第11代将軍です。
(名前は複数回変わりますが、ややこしいので今回は義澄さん一択で)

Asikagayosizumi500as あの応仁の乱が終わっても、まだ後継者争いを続けていた畠山(はたけやま)(7月12日参照>>)の戦いで、

時の将軍である足利義稙(よしたね=義材:10代将軍)が、片方の畠山政長(はたけやままさなが)に味方をした事をキッカケに、

日頃の義稙への不満が爆発した管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと)が、義稙が京都を離れたスキの明応二年(1493年)4月に起こした将軍交代クーデター明応の政変(めいおうのせいへん)(4月22日参照>>)で、その政元によって擁立された将軍が義澄です。

そもそもは、
東山文化で有名な8代将軍=足利義政(よしまさ)異母兄だった足利政知(まさとも)が、鎌倉公方(かまくらくぼう=関東を支配する将軍家の支族)の大暴れ【永享の乱】参照>>)によって関東一帯がグチャグチャ状態になった時に、

それを治めるべく派遣された幕府公認の新たな鎌倉公方だったわけですが、あまりにグチャグチャ過ぎて鎌倉(かまくら=神奈川県鎌倉市)に入れず、やむなく伊豆国堀越(ほりごえ=静岡県伊豆の国市)に居を構え、以後は堀越公方(ほりごえくぼう)と呼ばれるようになるわけで、

Asikagakuboukeizu3 ←足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

足利義澄は、この政知の次男ですが、早くから長男の足利茶々丸(ちゃちゃまる)が後継者に決まっていた事から、義澄は出家して仏門に入っていました。

そんな中で、義政の後を継いでいた息子=足利義尚(よしひさ=9代将軍)が、長享三年(1489年)に未だ実子がないまま近江鈎(まがり=滋賀県栗東)陣中で亡くなった(3月26日参照>>)事から、一時は後継者候補に義澄の名も挙がったのですが(義尚の従兄弟なのでね)

この時は、足利義視(よしみ=義政の弟)(1月7日参照>>)&義稙(当時は義材)父子が素早く根回しした事や、日野富子(ひのとみこ=義政の嫁で義尚の母)が義稙の母が自身の妹である事で一歩引いた事から、10代将軍は足利義稙に決まったという経緯がありました。

しかし、就任からほどなく日野富子は足利義稙と袂を分かつようになり、幕府内でも応仁&文明の乱を共に戦った近臣ばかりを重用する義稙に不満を抱く者が現れるようになり、結局、冒頭に書いた明応の政変へと向かい、細川政元が、将軍を義稙から義澄に挿げ替えた…という事になるのですが、、、

ちなみに、この明応の政変の半年後の明応二年(1493年)10月には、父の政知が亡くなった後に堀越公方を継いていた足利茶々丸を北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)が襲撃する伊豆討ち入り(10月11日参照>>)が起って、ここで堀越公方は滅亡しています。

ところで、この明応の政変をやってのけた細川政元自身も、それをすれば、幕府内の家臣が義稙派と義澄派に分断されてしまう事は百も承知でした。

なんせ上記の通り、義稙に優遇されている家臣もいるわけですから。。。

しかも、政元にとっての大いなる失敗は、幽閉していた義稙が畿内を脱出して畠山の領地の一つである越中(えっちゅう=富山県)逃れてしまった事。。。

そこで地元の有力者の援助で御座所(おましどころ・ござしょ=貴人のいる場所・御所)を構えて、将軍として各地に御内書(ごないしょ=直接の命令書)を発給したりなんぞするようになるのです。

そう・・・将軍が二人いるようなややこしい事になってしまうのです。

そんな状況が続く中、将軍に就任したばかりの頃は未だ12~3歳の少年で、実権は細川政元や日野富子に握られていた義澄も、やがて富子が亡くなり、どんどん成長するにつれ、自身で政務をこなしたいと思うようになり、度々、政元と衝突する。。。

文亀二年(1502年)には、政元が
「もう、管領辞める!」
丹波(たんば京都府中部と兵庫県中東部)に下り、
義澄は義澄で岩倉(いわくら=京都府京都市左京区)の寺に引き籠り、一触即発の状態となりますが、何とか解決・・・

しかし、このゴタゴタを解決するために、義澄の異母弟で出家していた義忠(ぎちゅう)が帰らぬ人となってしまったため、足利将軍家の血筋が、この義澄と、逃亡中の義稙とだけになってしまい、義澄と政元は対立しつつも、うまくやってくしかならない状況になるのです。

そんなこんなの文亀三年(1503年)、政元が、かねてより自身の後継者としていた細川澄之(すみゆき)に変えて、細川澄元(すみもと)後嗣(こうし=後継ぎ)に立てた事から、俄かに政元の後継者問題が浮上します。(9月4日参照>>)

実は政元は生涯独身で実子がおらず、
関白の九条政基(くじょうまさもと)の息子=澄之
阿波(徳島県)細川家から来た澄元
備中(岡山県)細川家細川高国(たかくに)
と、3人の養子を後継者候補として迎えていたわけで…

もう、こんなん後継者争いが激しくなる未来しか見えません。

案の定、永正四年(1507年)6月、澄之の補佐役だった香西元長(こうざいもとなが)政元は暗殺されてしまうのです(6月23日参照>>)

こうして後継者争いが水面下から表面上にあらわになってから約1ヶ月後、電光石火で澄之を排除した澄元が実権を握った事で、義澄も澄元を、細川家の後継者と承認するしかありませんでした(8月1日参照>>)

しかし、それも長くは続かず・・・このゴタゴタをチャンスと見た足利義稙が周防(すおう=山口県)の大物=大内義興(おおうちよしおき)味方につけて上京して来て、さらにもう一人の養子の細川高国が、彼らとくっつきます(12月25日参照>>)

危険を感じた義澄と澄元は、都を捨てて岡山城(おかやまじょう=滋賀県近江八幡市:水茎岡山城)九里員秀(くのりかずひで)を頼って近江(おうみ=滋賀県)へと逃れます。

これにより、京都は足利義稙が牛耳る事となり、義澄は将軍職を廃され、義稙が将軍に返り咲きます。

とは言え、近江の名門=六角氏(ろっかくし)も味方についてくれたおかげで、義稙派の大内義興&細川高国の度々の攻撃にも、何とか耐える義澄。。。(2月26日参照>>)

そんな中、澄元の故郷である阿波からの義澄派への大量支援を心配する細川高国は、永正八年(1511年)7月に摂津(せっつ=大阪府北部)芦屋河原(あしやがわら・兵庫県芦屋市)に澄元方の細川尚春(ひさはる)を攻めて彼らの連絡を遮断しようとしますが、

しかし、これはかえって一族の細川政賢(まさたか)播磨(はりま=兵庫県)赤松義村(あかまつよしむら)相次いで澄元側へ寝返ってしまうという結果を招いてしまいました。

そんなこんなの永正八年(1511年)8月14日足利義澄は、滞在していた岡山城にて32歳という若さで病死してしまうのです。

しかも、その10日後に起こった船岡山 (ふなおかやま=京都市北区)の戦い(8月24日参照>>)で、義稙&義興&高国連合軍に、澄元は敗退して阿波へと戻ってしまい、そのまま阿波にて亡くなります。

こうして世は足利義稙一色となり、義澄の芽は摘まれたか?に見えますが・・・

いやいや~どうしてどうして、肝心の跡継ぎが義稙には無く、逆に義澄は2人の男の子をもうけていたわけで、その血脈は未来へと受け継がれる事に。。。

そう・・・すでに2人の男子は、一人は阿波の澄元に、一人は赤松義村に預けられていたのです。

なんせ、戦国ドラマに欠かせない足利義輝(よしてる~第13代将軍)足利義昭(よしあき=第15代将軍)兄弟は、この義澄さんの孫ですからね~
(もちろん14代もネ!)

そして阿波にて死去した澄元にも息子が・・・

…と、その続きのお話は、
その後の義稙さんのページ(12月25日参照>>)の後半部分を。。。

さらに
細川家の後継者争い
 【腰水城の戦い】>>
 【等持院表の戦い】>>
 【大物崩れ】>>
Yanagimotosoukanzu
京都争奪戦
 【京を制した柳本賢治】>>
 【細川氏綱と三好長慶】>>
など、ご覧いただければ幸いです。
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コメント

いまちょうど週刊ビックコミックスピリッツの、「新九郎、奔る」で将軍になって間もない時期の義澄が悪戦苦闘する様子が描かれています。
11代将軍と言えば徳川幕府の11代将軍・徳川家斉が「べらぼう」に出る(もうしばらくすると将軍になる)とのことで、徳川将軍15人全員が大河ドラマに登場と話題です。

投稿: えびすこ | 2025年8月17日 (日) 09時40分

えびすこさん、こんばんは~

そうなんですね。。。

大河ドラマも楽しみです(^o^)

投稿: 茶々 | 2025年8月18日 (月) 01時44分

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