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2025年10月 1日 (水)

松永久秀2度目の謀反~信貴山城の前の織田信長…片岡城&柳本城の戦い

 

天正五年(1577年)10月1日、織田信長が、反発した松永久秀方に属する片岡城と柳本城を陥落させました。

・・・・・・・

乱世の梟雄の異名を持つ松永久秀(まつながひさひで)・・・

ご存知のように、
戦国初の天下人と言われた三好長慶(みよしながよし)(6月9日参照>>)右筆として頭角を表し、三好の配下として大和(やまと=奈良県)平定に勤しむ毎日でしたが(11月24日参照>>)

長慶亡き後に三好が衰退する中で(5月9日参照>>)足利義昭(あしかがよしあき=第15代室町幕府将軍)を奉じて織田信長(おだのぶなが)上洛する(9月7日参照>>)いち早くはせ参じて、今度は織田傘下として大和平定に勤しむ(3月27日参照>>)。。。

しかし、世に言う『信長包囲網』的な物で信長の周りが敵ばかりになったところで、信長に敵対する武田信玄(たけだしんげん)(12月22日>>)三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市:浄土真宗の本拠)(8月26日参照>>)結んで、今度は信長の敵に回る久秀さん(8月4日参照>>)。。。

ところが、このタイミングで武田信玄が亡くなり(4月16日参照>>)
信長とギクシャクしてた足利義昭は降伏(7月18日参照>>)
あの浅井(あざい)(8月23日参照>>)朝倉(あさくら)(8月20日参照>>)信長の前に散り

かつて久秀とともに信長傘下となった三好義継(みよしよしつぐ=長慶の甥で養子)信長に攻められて自刃(11月16日参照>>)
本願寺は信長と休戦協定を結ぶし、大和を取り合ってた筒井順慶(つついじゅんけい)近頃のドサクサでちゃっかり織田傘下となって、信長を後ろ盾に久秀の拠る多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)に狙いを定める。。。

天正元年(1573年)12月、やむなく松永久秀は信長に2度目の降伏(1度目は上洛した時ね)をして多聞山城を明け渡したのです(12月26日参照>>)

しかし、その2年後の5月には父の後を継いで領土拡大中の武田勝頼(かつより=信玄の息子)が、あの長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)で信長とぶつかり(5月19日参照>>)越前一向一揆(8月12日参照>>)に信長が苦戦する中で、上杉謙信(うえすぎけんしん)がお隣りの富山(とやま)まで侵攻(3月17日参照>>)・・・

すでに信長が平定したはずの丹波(たんば=兵庫県中部)波多野秀治(はたのひではる)が反信長の毛利輝元(もうりてるもと)側に寝返えると(1月15日参照>>)、これを機に石山本願寺が再び信長と一戦構えます。

この復活した石山本願寺との戦いが天正四年(1576年)5月3日の天王寺合戦(5月3日参照>>)なわけです。

そんな中、同じ5月の18日には上杉謙信が本願寺と和睦して、完全に信長とは敵対(5月18日参照>>)・・・さらに7月13日には、あの木津川口の戦い(7月13日参照>>)にて毛利水軍村上水軍に制海権を破られ、まんまと本願寺に兵糧を送り込まれてしまった織田軍。。。

その半月後の8月4日には、例の上杉謙信の進攻が飛騨(ひだ=岐阜県北部)まで到達します(8月4日参照>>)

そんなこんなの8月13日・・・未だ石山本願寺と対峙している天王寺の砦を任されていた松永久秀久通(ひさみち)父子が、任務を放棄して砦を去り、父子ともども信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)に立て籠もったのです。

そう・・・またしても謀反です
(まぁ、↑のように信長が攻められてる感満載なんでイケると思たんやろね)

この時の信長の反応は・・・
「どしたん?なんでなん?
 なんか思う所あるんやったら言うてみ。
 君の願い叶えたるさかい」
とまぁ、2度も謀反起こした久秀に、なんておやさしい第六天魔王さま。。。

しかし、その声掛けを無視してヤル気満々の態度をとる久秀を見た信長は、前回の降伏の際に久秀が差し出した2名の人質を成敗するよう命じます。

近江(おうみ=滋賀県)佐久間盛明(もりあき)の下に預けられていた久秀からの人質は、いずれも12歳~13歳ほどに見える少年(久秀の孫?)で、京都に連れて来られた彼らに面会した村井貞勝(むらいさだかつ=織田政権下の京都所司代)は、

「いつでも宮中に駆け込んで信長さんとの間を取りなしてもらう嘆願ができるようにしとかなあかんから、今から服装身なり整えときや」
と少年らにアドバイスしますが、

彼らは
「いや、無理やと思います」
ともう、覚悟を決めた様子。。。

それでも貞勝は、
「とりあえず、親兄弟に(助命の)手紙を書きなさい」
と即しますが、
二人は、
「いや、それも無用です」
と言って、硯と筆だけ借りながら、親兄弟ではなく、これまで預かって世話をしてくれていた佐久間盛明に対して、
「これまで親切にしていただいてありがとうございます」
別れの手紙を書いて送ったのです。

ほどなく二人の少年は六条河原にて処刑される事になり、これにて信長と久秀の間は、完全に決別してしまう事になります。

この間の9月の北陸では、上杉謙信が七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)を攻略し(9月13日参照>>)、その5日後には織田方の柴田勝家(しばたかついえ)手取川(てとりがわ)でぶつかり(9月18日参照>>)、さらに6日後には謙信が能登(のと=石川県北東部)を平定しており(9月24日参照>>)

松永方は、この先の更なる進攻に期待した事でしょうが、結局、謙信はそのまま越後(えちご=新潟県)へと戻ってしまい、畿内にやって来る事はありませんでした(翌年の3月に亡くなります>>)

一方、松永久秀の態度に松永討伐を決意した信長は、嫡男の織田信忠(のぶただ)をその総大将に据えます。

9月27日に岐阜を発った信忠は、近江肥田城(ひだじょう=滋賀県彦根市)で一泊した後、安土(あづち=滋賀県近江八幡市)丹羽長秀(にわながひで)と合流・・・さらに、そこに羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)佐久間信盛(さくまのぶもり)が加わります。

その一方で、筒井順慶や明智光秀(あけちみつひで)細川藤孝(ほそかわふじたか)らといった面々も別動隊として参戦します。

かくして天正五年(1577年)10月1日、この別動隊が松永方に属する片岡城(かたおかじょう=奈良県北葛城郡上牧町)柳本城やなぎもとじょう=奈良県天理市)に迫ったのです。

片岡城には、松永の息のかかった森秀光(もりひでみつ)海老名正勝(えびなまさかつ)らが立て籠もっていましたが、そこに1番乗りを果たしたのは、細川藤孝の息子=細川忠興(ただおき)細川興元(おきもと=昌興とも)の兄弟。。。

兄弟はともに15歳&13歳の少年で、弟の興元はこの日が初陣でした。

しかし、そんな未熟さは露とも見せず、先陣切って突っ込んで行くと他の者らも続いて飛び込み、あっという間に天守の真下まで到着。

天守からは鉄砲の嵐に弓矢の攻撃・・・やがて弾矢がつきると打って出ますが、寄せ手側の勢いは衰えず、籠城組はここで150人余りが討死し、その中には城主の森や海老名の姿もあり、片岡城は落ちました。

また、ここでは明智光秀も激しく戦い、主だった者20余人を討ち取ったという事です。

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現在の黒塚古墳一帯が柳本城

一方、松永金吾(きんご=松永久秀の甥?)が拠る柳本城・・・ここにも圧倒的な数の織田軍が津波のように押し寄せます。

金吾は善戦しますが、所詮は多勢に無勢・・・やがて城内から敵方に内応する者が次々と現れ、城内の士気は落ち、

自らの敗北を悟った金吾は自刃・・・片岡城と同じ10月1日に柳本城も陥落したのです。

ただし、金吾嫁とされる十市遠勝(とおちとおかつ)の娘(おなへ?)は、十市氏の再興を図るべく、落城寸前に脱出していま(12月9日の後半部分参照>>)

Sigisanzyounotatakaicc ちなみに本隊である織田信忠らの一軍は、10月3日に本家本元=松永久秀らの籠る信貴山城を囲み

松永父子との信貴山城の戦いへと挑みますが、そのお話は2010年10月3日のページ>>でどうぞm(_ _)m ↑クリックして大きく↑

もちろん、本日活躍した細川や明智の面々も、このあと信貴山城に合流する事になります。
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