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2025年9月10日 (水)

伊勢神宮の式年遷宮~未来につなぐ1300年の伝統

 

天武天皇十四年(685年)9月10日、伊勢神宮が20年ごとに社殿を新しくする「式年遷宮の制」を定めました。

・・・・・・・

式年遷宮(しきねんせんぐう)は、三重県伊勢神宮(いせじんぐう=伊勢市)で20年ごとに内宮(ないぐう)外宮(げぐう)正殿や社殿を、すぐとなりの敷地に造り変えて神様に移っていただく・・・
わかりやすく言うと、20年に一度、神様のお家を新築して、そちらにお移りいただくお引越し行事ですね。

Dscf0085a8001k それが、第40代の天武天皇(てんむてんのう)が発案したのを天武天皇十四年(685年)9月10日「式年遷宮の制」として定められたのです。

そして、次代の持統天皇(じとうてんのう=第41代)四年(690年)に内宮を、同六年(692年)に外宮の遷宮が実際に行われたのが第1回・・・という事になり、以来、(一時の中断はあれど)1300年の長きに渡って、繰り返し行われているのです。

ま、当然ですが異説あります(この時代なのでね)

そもそも伊勢神宮は、
第10代崇神天皇(すじんてんのう)の御代に、疫病が流行した事により、
「天皇の住まいと同じ場所に天皇家のご先祖である天照大神(あまてらすおおみかみ)神霊(八咫鏡)を祀っている事はおそれ多い」
として、皇居と神居が分けられ、鏡を大和(やまと=奈良県)笠縫邑(かさぬいむら)に移して皇女に祀らせていた中で、

神霊を鎮座させる場所を探して各地を旅していた皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)が、伊勢の地に到着した時に、
『この神風の伊勢の国は
 常世の浪の重浪帰する国なり
 傍国の可怜国なり
 この国に居らむと欲ふ
「メッチャえぇ風吹く伊勢は、
 メッチャえぇ波くりかえすし、
 メッチャ居心地えぇやん。
 ここに住みたいわ~」
という天照大神の神託を受け取った事から、垂仁天皇(すいにんてんのう=第11代)二十六年(紀元前3年頃?)に、その伊勢の地に奉じたとされるのが内宮。。。

外宮は、
雄略天皇(ゆうりゃくてんのう=第21代)二十二年(478年)に、雄略天皇が
「ウチ一人やったら食事もままならんから、
 丹波(たんば=京都府&兵庫県北部)におる
 豊受(とようけ)シェフを、
 コッチに連れて来てくれへんかな?」
という天照大神の神託を受けて、現在の地に迎えられたと言います。

と、まぁ、一般的に伝わるご由緒を紹介させていただきましたが、ご存知のように、このような言い伝えの出典である『古事記』『日本書紀』そのものが、そもそも天武天皇の発案によって編さんが開始された日本最古の歴史書なわけで、、、
 ★参照↓
  ●太安万侶が古事記を作る>>
  ●稗田阿礼ってどんな人?>>
  ●天武天皇が「日本書紀」の編さんを命じる>>

なので、式年遷宮の決定についても、
『太神宮諸雑治事記』『二所大神宮例文』など、複数の神宮発の文献に記載があり、その文献でも「朱雀三年」とか「白鳳十三年」とか複数の説があります。

そんな中で、『太神宮参詣記』という文献に「天武天皇十四年乙酉」というのがあり、現在はこれが1番妥当であり、最も有力と見られているようです。

なので、今回は天武天皇十四年(685年)9月10日という日付にて、このブログを書かせていただてますが、実際には、まだまだ複数の説が存在しています。

ただ、私個人的には、天武天皇の皇女である大伯皇女(おおくのひめみこ=大来皇女)が、斎王(さいおう=巫女として奉仕する内親王)制度が定まった時の初代斎王として天武天皇三年(674年)~朱鳥元年(686年)まで伊勢神宮に奉仕していた事は事実ではないか?と思っているので、

その頃には伊勢神宮は重要視されていて、同時に、様々な細かな制度が次々と制定されていったのではないか?と考えています。

だって、皇位継承問題でヤバい立場に立たされている弟の大津皇子(おおつのみこ)(9月24日参照>>)、伊勢まで会いに来てくれた時に、一人で明日香に戻る弟に詠んだ
♪二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を
 いかにか君が 独り越ゆらむ ♪
「二人でも大変な山やのに、弟はどうやって越えるんやろ」や、

謀反の疑いで処刑されて二上山に葬られた後に、大和へと帰って来た皇女が詠んだ
♪うつそみの 人なるわれや 明日よりは
 二上山を 弟背(いろせ)とわが見む ♪
「明日からは、二上山を弟だと思って見ながら、私は生きていく」
など、

これらの『万葉集』に残る大伯皇女の歌に涙した小学5年の純粋な乙女ごころを否定したくないのでwww
(↑個人の希望が含まれています)

ま、歌の真偽はともかく、
おそらくは奈良時代後期から平安の初め頃には制度化されていたと思しき式年遷宮。。。

その思想的な意味については、
正殿の柱が、
古い建築様式の塗装していない白木を地面に突き刺した掘立柱であるため、劣化が激しく長持ちしない中で、とこしえに神の勢いを保つべく、常に新しく造り変えるという考え方。

また現実的な意義としては、
職人さんが、その伝統的な技法を次世代に伝えるため…なんて事も言われますが、

戦国時代の中断や多少の延期はあったものの、約1300年&62回に渡って続けられてきた神聖なる儀式は、
もはや「いつから?」「どうして?」「なぜ?」
なんて事よりも、その伝統自体が誇れる物だと思うのです。

伝統という物は、古ければ古いほど、その起源や意味が忘れられ、「形(儀式のやり方)」だけが残る物・・・

あくまで個人的な意見ですが、元号もそうだと思うのです。

このグローバルな21世紀、
「意味ないやん」
「不便なだけやん」
「西暦だけでえぇんちゃうん?」
と、思う事もあろうかと思いますが、

伝統という物は、途絶えてしまえば、そこで終了。

一旦やめてしまってから
「しもた(><)」
「もっかい」
と思っても、
次は、また1からになっちゃうんですよね~

なので伝統は、意味がわからなくても、ムダだと思っても、続ける事に意義があるのです。

もちろん眉をひそめるような悪しき伝統は論外ですが、
このような美しき伝統は次世代につないでいってほしいなぁ~と思いますね。

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式年遷宮では宇治橋もかけ替えられます

式年遷宮の儀式の内容や技術的な事については、伊勢神宮の公式ページ>>をはじめ、ネット上に、もっとくわしいサイトが多々あるので、
このブログでのご紹介は止めときますねm(_ _)m
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