姉川→宇佐山から堅田へ~織田信長の志賀の陣
元亀元年(1570年)9月25日、比叡山へと逃げ込んだ浅井&朝倉軍を包囲すべく、織田信長が宇佐山城に本陣を構えました。
・・・・・・・
永禄十一年(1568年)の9月に第15代室町幕府将軍となるべき足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛(9月7日参照>>)した織田信長(おだのぶなが)は、その後、将軍の名の下での上洛要請に応じない越前(えちぜん=福井県東北部)の朝倉義景(あさくらよしかげ)を倒すべく天筒山・金ヶ崎城(てづつやま・かながさきじょう=福井県敦賀市)への攻撃を開始する(4月26日参照>>)のですが、
この時に同盟を結んでいたはずの北近江(おうみ=滋賀県)の浅井長政(あざいながまさ)が後方から挟み撃ちをして来た事から、急きょ攻撃を中止し(4月27日参照>>)、なんとか居城の岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)へと戻りました(5月19日参照>>)。
これは金ヶ崎の退き口と呼ばれ、信長の生涯でも屈指の危機一髪状態だったわけですが、その約2か月後に、報復戦とばかりに信長が浅井長政の居城である小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市)の南にある横山城(よこやまじょう=同長浜市)を囲み、救援にやって来た浅井&朝倉軍とぶつかるのが、ご存知…元亀元年(1570年)6月28日の姉川の戦いです。
●【金ヶ崎から姉川までの2ヶ月間】参照>>
この時、浅井&朝倉連合軍を打ち破った信長でしたが、なぜか、そのまま本拠の小谷を攻める事無く岐阜に戻るのです(6月28日参照>>)。
ま、この頃の信長さんの敵は浅井&朝倉だけではありませんから、それらも踏まえて深追いをしなかったのかも知れません。
案の定、前年に足利義昭の仮御所を襲撃(【本圀寺の変】参照>>)した三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)が、この間に、摂津池田城(いけだじょう=大阪府池田市)の城主=池田勝政(いけだかつまさ=勝正)の重臣だった荒木村重(あらきむらしげ)をけしかけて池田城を乗っ取らせ、自分たちは野田福島(のだふくしま=大阪市福島区)に砦を築いて信長に対抗しようとしたのです(8月26日参照>>)。
これを受けて8月20日には岐阜を出発して、26日には大阪の天王寺(てんのうじ=大阪府大阪市)に陣を置いて三好三人衆を迎え撃つ信長でしたが、
9月には、そこに信長から退去要請を受けている第11代法主=顕如(けんにょ)率いる石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市:浄土真宗の拠点)が加わり(9月12日参照>>)、
9月14日には春日井堤(かすがいつつみ・滓上江堤=かすがえつつみ)にて激戦となりました(9月14日参照>>)。
これをチャンスと見たのが浅井長政と朝倉義景・・・9月16日に3万の大軍を率いて琵琶湖西岸を南下し、大津坂本(さかもと=滋賀県大津市)に打って出ます。
ここには信長の属城である宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)がありました。
しかし、この時の宇佐山城には織田家重臣の森可成(もりよしなり)の手勢と、加勢にやって来ていた野府城(のぶじょう・愛知県一宮市)の織田信治(のぶはる=信長の弟)の手勢を合わせても、わずかの1000ほどしかいませんでした。
少ないながらも打って出て坂本の町はずれで迎え撃って何とか踏ん張りますが、9月19日には浅井&朝倉連合軍は二方面に分かれて、さらに進攻・・・
出城までは落とされながらも奮戦し、宇佐山城自体の陥落は何とか免れましたが、弟の織田信治&森可成をはじめ、主だった者がことごとく討死したのです(9月20日参照>>)。
(なんせ、3万と千やからね)
先を急ぐ浅井&朝倉軍は、そのまま南下し、21日には京都の山科(やましな=京都市山科区)や醍醐(だいご=京都市伏見区)付近まで進撃し、周辺に放火して回りました。
この知らせを聞いた信長は、9月23日に野田福島の陣を引き払い、和田惟政(わだこれまさ)と柴田勝家(しばたかついえ)に殿(しんがり=最後尾隊)を命じて江口(えぐち)の渡しを越えて、足利義昭とともに京都に入り、
村井貞勝(むらいさだかつ)らに二条御所(にじょうごしょ=義昭新御所→2月2日参照>>)の警備を固めさせ、本能寺(ほんのうじ= 京都府京都市中京区)で一泊した後、24日には浅井&朝倉の攻撃に向かったのです。
すると、この時下坂本に布陣していた浅井&朝倉軍は、信長の進攻を知るや否や、逃走して比叡山(ひえいざん=滋賀県大津市西部&京都府京都市北東部の山・延暦寺がある)に上り、青山城(あおやまじょう=滋賀県大津市坂本本町)や壺笠山城(つぼかさやまじょう=同坂本本町)などに立て籠もったのです。
この様子を見た信長は、延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)の僧を10人ばかり呼び寄せて、稲葉一鉄(いなばいってつ)と佐久間信盛(さくまのぶもり)を通じて、
「今回の戦いで、ウチに味方して欲しいんですけど、もしかして『仏に仕える身としてどちらかの味方になる事はできん…』って言わはるんやったら、どうか中立のままスルーしとって下さい。
向こうに味方しはったら焼き討ちするしかありませんよって…」
との申し入れをしたのです。
しかし延暦寺は、この信長の要請に返答をしないばかりか、浅井&朝倉を援助する動きに出ます・・・つまり敵対したのです。
(広域図)![]() |
(詳細図)![]() |
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かくして元亀元年(1570年)9月25日、信長は宇佐山城に本陣を構えて比叡山の麓を一斉に包囲する事にしたのです。
まずは比叡山の麓にある香取屋敷を補強して不破光治 (ふわみつはる)や丹羽氏勝(にわうじかつ)らを置き、穴太(あのう=同下坂本)の村にも要害を築いて佐々成政(さっさなりまさ)・河尻秀隆(かわじりひでたか)・明智光秀(あけちみつひで)など16人の部将らを配置。
田中(滋賀県大津市)には柴田勝家や氏家卜全(うじいえぼくぜん)らを陣取らせ、唐崎(からさき=同大津市)の砦には佐治為興(さじためおき=信長の妹婿)に織田信張(おだのぶはる) を置いて、自らは宇佐山の本陣から指揮を取ります。
さらに京都方面の備えとして勝軍山城(しょうぐんやまじょう=京都府京都市左京区)に織田信広(のぶひろ=信長の兄)ら2千を入れ、八瀬大原口(やせおおはらくち=京都市左京区付近)にも砦を築いて土地勘のある蓮養坊(れんようぼう=大徳寺領愛宕郡高野の領主)らを配置し、地の利を活かして毎夜のように山内に放火させたのです。
こうして両者の対陣が続く中、やがて信長からの要請に応じた徳川家康(とくがわいえやす)配下の酒井忠次(さかいただつぐ)らが率いる2千人ばかりの援軍が草津(くさつ=滋賀県草津市)と瀬田(せた=同大津市瀬田)の間に陣取って、未だ抵抗する六角承禎(ろっかくじょうてい=義賢)父子(【野洲川の戦い】参照>>)と一向一揆に備えます。
11月16日に信長は瀬田に舟橋をかけて警固を強化しますが、この間にあの長島一向一揆(ながしまいっこういっき)が蜂起・・・(11月21日参照…ないようカブってます>>)
そんな一揆衆が、信長の弟である織田信与(のぶとも・信與)の守る古木江城(こきえじょう=愛知県愛西市)に押し寄せ、城門を破って信与が自刃した11月21日、まさにその日に六角承禎が信長に和睦を申し入れ、浅井&朝倉方の一角が崩れます。
さらに11月25日には、堅田城(かただじょう=滋賀県大津市本堅田)を守っていた猪飼野正勝(いかいのまさかつ=猪飼昇貞とも)ら3名が、
「お味方します」
と信長に忠誠を誓った事から、信長がこの堅田城に約千名の兵を投入した事で、浅井&朝倉勢は、この堅田城を取り返さなければ退路を断たれる事になってしまったのです。
こうして11月26日にぶつかったのが堅田の戦いです(11月26日参照>>)。
しかし、それでも結着がつかず両者とも長い対陣に疲れの色が濃くなる一方。
なんせ上記の通り、9月からドンパチやってますから。。。
しかも浅井&朝倉にとっては、領国はもはや雪の季節・・・このままでは北国への通路が雪に塞がれてしまう事に、、、
そこで浅井&朝倉は足利義昭を通じて信長に和平を勧めますが、信長は同意せず。。。
とは言え、そんな信長も
「朝廷から、和平の綸旨(りんじ=天皇家が出す命令書)が出るなら」
と落としどころを提案。
間に入った将軍・義昭が、天皇の綸旨を持って坂本に入った11月28日、ようやく和平に向けての交渉が開始され、12月10日に和睦が成立。
13日には信長が瀬田まで軍を退き、15日には浅井&朝倉軍も比叡山を下りて軍を退き、3ヶ月に及ぶ志賀の陣は終結する事となったのです。
もちろん、ご存知のように、今回の和平は一時しのぎ・・・信長と浅井&朝倉の戦いは、まだまだ続きます。
このあとのアレコレは【織田信長の年表】>>の年が明けた1571年のところからどうぞm(_ _)m
2月24日に早速、浅井家臣の磯野員昌(いそのかずまさ)が佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を開城して、両者の戦いが復活します(参照>>)。
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