主君に物申す~淀城の戦い…薬師寺元一の乱
永正元年(1504年) 9月4日、摂津守護代の薬師寺元一が細川政元に対する謀反で淀城に籠城・・・薬師寺元一の乱が勃発しました。
・・・・・・
父の細川勝元(ほそかわかつもと)亡き後、その後を継いで応仁の乱を終結させた(11月11日参照>>)後、管領(かんれい)として室町幕府将軍=足利義稙(あしかがよしたね=義材:10代)をサポートしていたものの、
明応二年(1493年)4月に、その将軍が京都を留守にしている間に明応の政変(めいおうのせいへん)(4月22日参照>>)というクーデターを起こし、将軍を自分の意のままになる足利義澄(よしずみ=11代)に挿げ替えた細川政元(まさもと)。
(↑これまで何度も登場していますが…一応ご紹介)
自分の好みで将軍は交代させ、「半将軍」と呼ばれるほどの力を持った政元・・・もはや敵無し状態でしたが、
意のままになっていた幼き将軍も、やがては成長してぶつかるようにもなる中(8月14日参照>>)、
これまで
越中(えっちゅう=富山県)へ逃げた前将軍=義稙に味方する畠山尚順(はたけやまひさのぶ)と戦ってくれたり(9月27日参照>>)、
自身の代わりに反発する大和(やまと=奈良県)に攻め込んでくれたり(12月16日参照>>)、
近江(おうみ=滋賀県)の六角(ろっかく)氏とも戦ってくれていた(3月24日参照>>)政元の1番のお気に入り家臣=赤沢朝経(あかざわともつね=澤蔵軒宗益)が、
永正元年(1504年)に入った頃から、何やら政元を無視して勝手な行動を取り、対立するようになったのです。
文書には「違乱(いらん)」とありますので、何かしら法に違反する事、秩序を乱す行動があったのかも知れません。
そこで政元は、この年の3月9日、配下の薬師寺元一(やくしじもとかず)に命じて、赤沢の槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)を攻撃させようとします。
しかし、それを察知した赤沢は、この日の朝早くに6~700の兵と共に城を退去して逃走したのです。
これを好機と見たのが、かつて赤沢にしてやられた畠山尚順です(上記のリンク参照>>)。
このゴタゴタの最中に、上記の槇島城と同様の交通の要衝に建つ淀城(よどじょう=京都府京都市伏見区納所:淀古城・藤岡城)を奪おうと大軍を率いて迫ったのです。
この時、淀城の守りには細川方の郡代(ぐんだい=郡の代官)=神保与三左衛門(じんぼうよそうざえもん)がついていましたが、政元は、そこに薬師寺元一と薬師寺長忠(ながただ=元一の弟)兄弟、香西元長(こうざいもとなが)らの軍勢を助っ人として派遣し、畠山尚順からの攻撃に備えたのです。
ところが、ここで政元にとって予想外の展開が起ります。
永正元年(1504年) 9月4日、助っ人として淀城に入ったはずの薬師寺元一が、突如、城内を掌握して籠城したのです。
これには、実は・・・ブログでも度々登場している細川政元の後継者問題です。
政元は、
「その生涯で1度も女性と接した事が無い」
と言われ、もちろん未婚・・・
なので、当然、実子はいないわけですが、かと言って、ここまで権力を握った限り、それを受け継ぐ者がいないわけにはいかない。。。
そこで、政元は前関白の九条政基(くじょうまさもと)の息子=澄之(すみゆき)を養子として迎え、細川京兆家(細川の嫡流)の世子(後継ぎ)が代々名乗る幼名=聡明丸(そうめいまる)を名乗らせ、13歳になった文亀二年(1502年)には、正式に嫡子(ちゃくし=後継者)に指名していたのです。
ところが、その翌年、いきなり澄之を廃嫡(はいちゃく=嫡子でなくなる・相続権はく奪)して、分家の阿波(あわ=徳島県)細川家の細川澄元(すみもと)を養子にして、コッチを後継者に指名したのです。
政元の父ちゃんが勝元だった事でもお察しの通り、この「元」という字が細川家の後継ぎが継承していく通字(とおりじ=代々受け継いでいく文字)だったわけで、
本来なら聡明丸だった澄之が、元服後に名乗るはずだった澄元を、先に元服したコッチに名乗らせちゃって、完全なるシフトチェンジ。。。
しかも、その前後には、やはり分家の野洲(やす)細川家からの高国(たかくに)という養子もプラスされていて、もはや争いの匂いしか感じない状況となっていたわけですが、
実は、上記の澄元を阿波に迎えに行った人物が薬師寺元一・・・つまり、元一は、完全に澄元派だったわけで、
どうやら、
「澄元を早く後継者にしろ!」
という意思表示の籠城だったようです。
いやいや~
「元」の字ももろてるし、後継者に指名されてんやから焦らんでも…
と思いますが、
実は、『足利季世記(あしかがきせいき)』なる書物によると…
「京管領細川右京大夫政元ハ
四十歳ノ比マデ女人禁制ニテ
魔法 飯綱ノ法 愛宕ノ法ヲ行ヒ
サナカラ出家ノ如ク山伏ノ如シ
或時ハ経ヲヨミ陀羅尼ヲヘンシケレハ
見ル人身ノ毛モヨタチケル」
と、この頃の政元は、
40歳の今まで女人禁制して、山伏のようになり、魔法を使って空を飛んだり、空中に立ってトランス状態となって、周りの人たちは心配していたと、、、
なな何ですと!?
この21世紀に大バズリの
『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』
という話は室町時代からあった…て事なのか?
とにもかくにも、政元が、そんな感じなんで薬師寺元一としては、
「政元っさんには、今すぐ隠居してもらって、澄元クンを当主に…」
って事だったらしい。。。
こうして元一が淀城に籠城すると、南山城(みなみやましろ=京都府南部)の土豪(どごう=地侍)も呼応して籠城に参戦し、かの赤沢朝経までも同調して加わり、一大合戦の様相を呈して来ます。
しかし、そこを、兄と袂を分かった薬師寺長忠が、香西元長とともに軍を率いて淀城に攻め込み、籠城から半月後の9月19日、淀城は落城しました。
元一は捕縛され、籠城兵も60余名が戦死・・・元一とともに籠っていた四宮長能(しのみやながよし)らが自殺し、赤沢は大和へと逃走しました。
ちなみに…赤沢は、この戦いに貢献した薬師寺長忠のとりなしで、後に許されますが、元一は、翌9月20日に自害させられる事になります。
享年28・・・その辞世の句は
♪地獄には よき我が主の あるやとて
今日おもひたつ 旅衣かな ♪(薬師寺元一:辞世)
生前の元一が、この歌を詠んだ際、
「『我が主』=『わかしゅ』と読め」
と家臣に言っていたらしく、
どうやら、
「我が主」→「わかしゅ」→「若衆」の意味だったのだとか。。。
つまり、我が主は若衆・・・主君の政元さんは衆道(しゅどう=BL)のお相手であったと。。。
なーんだ~女性は寄せ付けなくても、そっちはイケるくちだったんですね~(#^o^#)
(例の「チェリまほ」もそうらしい...読んでないけど)
てな事を言ってる場合ではない!
そう…これによって、皆が心配していた後継者問題が表面化して、細川家内での派閥による対立が高まり、
結局、今回は事を収めた立役者であった弟の薬師寺長忠が、澄之推しの香西元長と組んで、政元を暗殺(6月23日参照>>)する事になるのですから。。。
政元亡き後、さらに加速する後継者争いについては
下記↓リンクからどうぞm(_ _)m
●澄元VS澄之~百々橋の戦い>>
●い澄元が阿波に戻る~船岡山の戦い>>
●高国VS澄元~腰水城の戦い>>
●高国VS晴元(澄元息子)~桂川原の戦い>>
●高国VS晴元~東山・川勝寺口の戦い>>
●高国自刃~大物崩れ・天王寺の戦い>>
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