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2025年9月18日 (木)

関ケ原の戦い後…石田三成の佐和山城が陥落

 

慶長五年(1600年)9月18日、三日前の関ヶ原の戦いを制した東軍が、敗者である石田三成の居城・佐和山城を開城させました。

・・・・・・・

関ケ原の戦い本チャンの後の佐和山城攻めについては、ブログを始めてまもなくの2006年に、攻撃が開始された日付け=9月17日>>にて1度書かせていただいておるのですが、

この時は、その経緯や結果についてのお話が主流で、戦いの内容についてはほとんど触れていませんでしたので、
(初めて書くお話なので、どうしても大まかな流れ的な内容になってしまっていました…申し訳ない)

本日は19年ぶりに(オイオイ!来年20周年やんww)
落城の日付にて、さらにくわしく書かせていただきます。
(果たして成長しておるのか?否か?)

とりあえず「関ヶ原の戦い」全般については
【関ヶ原の合戦の年表】>>でどうぞm(_ _)m

・‥…━━━☆

時は慶長五年(1600年)9月15日…

一般的には「天下分け目」と言われる関ヶ原ですが、ご存知のように、わずか半日で決着がつき、負けた西軍の諸将は散り々々に戦場を離脱して行きました。
 【ともに命を賭けた戦場の約束】>>
 【関ヶ原に散る猛将・島左近】>>
 【小早川秀秋の東軍参戦】>>
 【島津の敵中突破!影武者・長寿院盛淳】>>

戦いを終え、天満山(てんまやま=岐阜県不破郡関ケ原町)の西南に陣を置いた徳川家康(とくがわいえやす)は、早速、東軍の諸将と引見します。

なんとな~く、自身の動向を決めかね、東軍への寝返りが遅れた感がする小早川秀秋(こばやかわひであき)(上記と同ページ参照>>)と対面した家康は、
「いや、今回の戦功は大やったで~」
と大いに喜び、

現場で行動が遅れた事や、その前に伏見城(ふしみじょう=京都府伏見区)への攻撃(8月1日参照>>)秀秋が参加していた事などは不問にすると言います。

「ホンマ、サッパリ忘れるから、今後も気にせんでえぇで~」
と…、しかし続けて
「ただなぁ…悪いんやけど、これから石田三成(いしだみつなり)の居城の佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を陥落させて来てくれへんかな?」

いやいや~やっぱ根に持ってはりますやん。
絶対に断られへんパターンのやつですやん。

これを聞いて
「俺も!」
「ワイも!」
と手を挙げたのが、秀秋と同様・・・いや、なんなら秀秋が寝返ったのを見てから寝返ったギリギリ寝返り組脇坂安治(わきざかやすはる)朽木元綱(くつきもとつな)らといった面々・・・

やっぱ、そうなるよな~最初は西軍で参戦してた負い目あるし、ここでえぇとこ見せな後々何言われるかワカランしね。

「そっか、そっか~」
と予想通りの成り行きに満足の家康は、直臣である井伊直政(いいなおまさ)軍監(ぐんかん=軍事の監督官)につけ、彼らを佐和山城へと向かわせる事にしたのです。

この時、戦場を離脱した石田三成は行方不明となっていましたが、もちろん、この間に密かに居城に戻っている可能性もゼロではありません。

ただ、三成がいるいないに関わらず、その留守は、父の石田正継(まさつぐ)や弟の石田正澄(まさずみ)らがしっかり守りを固めていますから、捨て置くわけにはいかないし、それなりの軍隊を派遣して落としておかねばならない城であったのです。
(ご存知のように、三成は城には戻っていませんでしたが…)

翌16日の朝に約1万5千の大軍で出立した徳川軍は、さらに翌日の9月17日の正午頃に佐和山城を包囲しました。

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佐和山城・本丸跡

小早川&朽木らが先鋒となって大手(おおて=正面)を攻め、田中吉政(たなかよしまさ)池田輝政(いけだてるまさ)らが搦手(からめて=横)の水の手口から攻撃をし、家康自身は平田山に陣を置いて城攻めの総指揮を取ります。

一方
守る石田方は約2千8百・・・それでも徹底抗戦の腹を決めて包囲する徳川軍に向けて鉄砲を乱射すると約300余りが谷に撃ち落されるも、あまりの徳川方の数の多さに怯む者も続出。。。

それを見た池田隊が水の手口から防御柵を乗り越えて城内に侵入すると、小早川隊も二の丸まで進み、城兵との乱戦となります。

決死の覚悟の石田方は、なかなかに踏ん張りますが、なんせ数が違う・・・やがて夕方頃には、お互いに兵の疲弊が目に付くようになり、家康は攻撃を中止して講和交渉へと舵を切ります。

すでに本丸まで追い詰められていた石田父子は、
「もはや、これまで」
開城の決意を固め、

「我々石田一族は残らずこの場で自害しますけど、籠城の兵たちや女子供の命は、我々の命と引き換えに助けてもらいたい」
と、城内から石田正継が大声で叫ぶと、

「戦はやめろ!無益な殺生はするな」
と池田輝政が戦闘の中止を命じ、講和への交渉が始まります。

話し合いの結果により、
慶長五年(1600年)9月18日石田正澄の切腹を以って講和・開城と決まったのです。

ところが、その18日の朝が未だ明けききらぬ頃、その講和の結果を知らされていなかった(ホンマに?ww)田中吉政隊が一気に城内に乱入し攻め上って来て火の手が上がったため、

本丸は大混乱となり、その炎の中で石田一族十数人が割腹、または刺し違えて自害したのでした。

『佐和山落城記』には、
「もはや、これまで」
と察した城兵が、金蔵を開いて金箱を持ち出し、櫓に登って、その金銀をバラまいたところ、これを見た徳川方の兵が、我先にと争って、その金銀を拾いはじめ、

始めは下っ端の兵ばかりだったのが、やがて侍クラスの者までが弓矢を捨てて必死のパッチで拾い出し

集めた金をとめどなく鎧の中に押し込む様子を見て、小早川秀秋は、
「お前ら、カッコ悪い事すなや!」
と怒り心頭だったとか。。。

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佐和山城跡から見る彦根城(奥の白い部分は空ではなく琵琶湖です)

こうして落城した佐和山城は、軍監の井伊直政に与えられますが、ご存知のように、井伊直政は佐和山城を破却して新しく彦根城(ひこねじょう)を構築・・・

佐和山城の縄張りはほとんどが破壊されて、その彦根城の建築資材として使われる事になります。
【佐和山城~石田三成から井伊直正政へ】参照>>)

判官びいきなワイ…ちょっと石田推しで書いてしまいました~
家康ファンの皆様、ごめんなさいです。
 .

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