第1次伊丹城の戦い~伊丹元扶と伊丹城
大永七年(1527年)10月30日、柳本賢治&三好元長らが伊丹元扶の伊丹城を包囲した第1次伊丹城の戦いで、三好元長らが包囲を解いて京都方面へと戻りました。
・・・・・・・
伊丹元扶(いたみもとすけ)の伊丹氏は、南北時代頃からその名が登場する摂津(せっつ=大阪府北部)を根城にした国人(こくじん=地侍)で室町幕府政権下の摂津守護代(しゅごだい=副知事)の下で働いていたとされます。
やがて南北朝が終わる室町時代半ばになると、管領家(かんれいけ=将軍の補佐役を輩出する家系)として力をつけて来た細川(ほそかわ)氏や畠山(はたけやま)氏の被官(ひかん=家臣)として伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)主を務めるようになります。
そんな中で、おそらくは代々のご先祖様と同様に、何代目かの当主である伊丹元扶も、なるべくして時の管領である細川政元(ほそかわまさもと)に仕えます。
(伊丹元扶の「元」は細川政元の「元」と思われます)
大物の配下になって順風満帆~思いきや、そんなわずかな平和が崩れ落ちるのは永正四年(1507年)6月23日。。。
生涯独身で実子がいなかった政元に、常に囁かれる後継者争い(9月4日参照>>)の中で、結局、その後継車争い関連から、政元は暗殺されてしまうのです(6月23日参照>>)。
そして(このブログで何度も登場している)3人の養子による後継者争いが始まります。
- 前関白の九条政基(くじょうまさもと)の息子=細川澄之(すみゆき)
- 阿波(あわ=徳島県)細川家からの養子=細川澄元(すみもと)
- 下野(しもつけ=栃木県)の野洲(やす)細川家からの養子=細川高国(たかくに)
最初のうちは澄元と高国が連合を組み、澄之相手に戦っていた(8月1日参照>>)事、
また、亡くなる直前の政元は、澄元を後継者にしようとしていた(上記の通り「元」は細川家も通字)事もあり、
伊丹元扶も、始めは澄元に従っていたのですが、澄之亡き後に澄元と高国が袂を分かつと、元扶は高国につくのです。
というのも、どうやら伊丹元扶は、阿波時代からの澄元の重臣である三好之長(みよしゆきなが=三好長慶の祖父か曾祖父)と反りが合わない。。。
そのため、当時は八木城(やぎじょう=京都府南丹市)主だった内藤貞正(ないとうさだまさ)らとともに澄元に離反し、
かつての明応の政変(めいおうのせいへん)(4月22日参照>>)で細川政元が追放された前将軍=足利義稙(あしかがよしたね=10代将軍:義尹)と義稙を支援する西国の雄=大内義興(おおうちよしおき)が、今回の後継者争いのスキを突いて上洛しようとするのを後押しする高国(11月15日参照>>)のもとに走ったのです。
つまり
細川澄元が担ぐ現将軍=足利義澄(よしずみ=11代)
VS
大内義興&細川高国が担ぐ前将軍=足利義稙
という構図です。
京都間近に迫る義稙&大内に(12月25日参照>>)危機感を抱いた足利義澄は、永正五年(1508年)の4月、わずか300人の手勢とともに近江(おうみ=滋賀県)へと避難(2月26日参照>>)したのです。
かくして現将軍がいなくなった京都に入った足利義稙らは、即座に幕府を掌握・・・もちろん、そこには高国らの入京に呼応して京都に駆けつけた伊丹元扶らの姿もありました。
それからも、完全勝利を目指す義稙&高国と、近江の有力者=六角氏(ろっかくし)を後ろ盾に抵抗する義澄でしたが、
残念ながら義澄は2度と都の地を踏むことなく永正八年(1511年)8月14日 に近江にて死去(8月14日参照>>)・・・
その10日後の船岡山 (ふなおかやま=京都市北区)の戦い(8月24日参照>>)で、義稙&義興&高国連合軍に敗北した澄元は、一旦、阿波へと退去しました。
やがて永正十五年(1518年)8月、大内義興が領国の周防(すおう=山口県)に戻ったのをキッカケに、態勢をたてなおした澄元が摂津へと進攻すると、なんと足利義稙は細川高国と離反・・・やむなく高国は単独で近江に逃れ、今度は澄元が一時的に政権を掌握します。
ちなみに『細川両家記』よれば…
この頃、勢いづく澄元勢が伊丹城にも殺到した事で、城を守っていた伊丹但馬(いたみたじま)と野間豊前(のまぶぜん)は、
「守り切れぬ」
と判断し、
「四方の城方をさし
家々へ火をかけ
天守にて腹切りぬ」
とあり、
具体的な戦闘の模様は不明なれど、永正十七年(1520年)2月に城兵らが天守にて切腹して伊丹城が落城した事が記されており、これが文献資料における「天守」の初出とされています。
(つまり文献を信じるならば、この時点で伊丹城に天守閣があった事になりますね)
とは言え、今回、澄元に奪取された伊丹城は、この3ヶ月後の永正十七年(1520年)5月に起こった等持院表(とうじいんおもて)の戦い(5月5日参照>>)で高国が勝利した勢いに乗じて伊丹元扶が奪回しています。
ここで負けた澄元は阿波へと去り、その地にて死去・・・すでに足利義稙と袂を分かつていた高国は、亡き足利義澄の息子=足利義晴(あしかがよしはる)を第12代室町幕府将軍として擁立して確固たる細川高国政権を樹立して我が世の春を迎える事になります。
こうして完全に勝ち馬に乗った感のある伊丹元扶ですが、世の中、そんなに甘くない・・・まして戦国。。。
かの等持院表から6年後の大永六年(1526年)10月、高国が勘違いで忠臣の香西元盛(こうざいもともり)を殺害してしまった事から、
元盛の兄弟である波多野元清(はたのもときよ=稙通)と柳本賢治(やなぎもとかたはる)が高国に対する挙兵を決意・・・高国政権は、もろくも内側から崩れることになります(10月23日【神尾山城の戦い】参照>>)。
この崩れっぷりをチャンスと見たのが、阿波にて亡くなった澄元の後を継いでいた息子の細川晴元(はるもと)・・・
これまた今は亡き三好之長の孫(もしくは息子)の三好元長(みよし もとなが=長慶の父)という重臣を連れて上京し、波多野&柳本兄弟らとタッグを組んで大永七年(1527年)2月13日、桂川原(かつらかわら)の戦い(2月13日参照>>)にて義晴&高国を近江へと追いやり、京都を占拠する事に成功するのです。
高国派の伊丹元扶・・ピ~ンチ!!
案の定、
桂川原の戦いから6日後の2月19日、一旦入京した波多野&柳本勢は、兵を返して伊丹城を包囲したのです。
詳細な記録が残っていないため、戦いの内容は不明なのですが、かの『細川両家記』には、
「道永方に伊丹城ばかり堅固也
誠に不思議哉とぞ申なり」
とあり、
その堅固な造りを活かして伊丹城に籠城した伊丹元扶は、不思議とも思える抵抗ぶりを見せ、近江へと逃亡した義晴&高国が再起を測るための時間稼ぎをしていたと思われます。
この間の3月に、細川晴元が義晴の弟である足利義維(よしつな)を奉じて堺(さかい=大阪府堺市)に上陸すると、三好元長もが、この伊丹城包囲戦の加わります。
それほど伊丹城包囲戦に柳本らが苦戦しており、よほど進展がなかった=伊丹元扶が頑張ってたって事なんでしょうけど(詳細な記録が無いのが悔やまれます)
やがて近江に脱出していた高国が、六角定頼(ろっかくさだより)や朝倉教景(あさくらのりかげ=宗滴)の協力を得て8ヶ月ぶりに上洛して来た事を受け、
大永七年(1527年)10月30日、柳本&三好元長らをはじめとする包囲方は、伊丹城への包囲を解いて撤退・・・京都西郊へと移動を開始したのです。
このあと両者(=高国×柳本ら)がぶつかるのが大永七年(1527年)11月19日の東山・川勝寺口の戦いです(11月19日参照>>)。
こうして、今回は伊丹城を死守した伊丹元扶でしたが、おそらくは、この時の撤退劇を
「屈辱の極み」
とでも思っていたであろう柳本賢治が、享禄二年(1529年)8月に伊丹城への攻撃を開始。。。
この時も約3ヶ月に渡って踏ん張った伊丹元扶ではありましたが、残念ながら享禄二年(1529年)11月21日、柳本勢の総攻撃により元扶は討死してしまいました。
その後の伊丹城は、伊丹元扶の息子とされる伊丹国扶(くにすけ)が継いでいましたが、そんな国扶が、細川高国が自刃して果てる大物崩れ(だいもつくずれ)の戦い(「中嶋の戦い」「天王寺の戦い」とも)(6月8日参照>>)にて高国とともに討死した事を受けて、
従兄弟の伊丹親興(ちかおき)が受け継いで、その後に・・・と、その伊丹城の続きのお話は2023年1月11日=【三好長慶VS伊丹親興~伊丹城の戦い】>>でどうぞm(_ _)m
そっかぁ~
伊丹城の次の相手は
三好長慶(ながよし)なのね。。。(・_・D フムフム
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