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2025年10月 8日 (水)

堺公方で将軍の父となった足利義維の人生波乱万丈

 

天正元年(1573年)10月8日、室町幕府第12代将軍=足利義晴の弟で14代将軍=足利義栄の父、自身も堺公方と呼ばれた足利義維が65歳で死去しました。

義維さんは、これまで度々登場しているため、他のページと内容がかぶっている部分がありますが、本日はご命日という事で、その生涯をたどる「まとめページ」ような感じで紹介させていただきますのでご了承くださいませm(_ _)m

・・・・・・・・・ 

足利義維(あしかがよしつな)が誕生したとされる永正六年(1509年)もしくは八年(1511年)頃(誕生年に2説あります)の父=足利義澄(あしかがよしずみ)は、まさに窮地の真っただ中にありました。
( 義賢義冬など複数回改名してますが、本日は義維で統一します)

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

父の義澄は、時の管領(かんれい=将軍の補佐役)である細川政元(ほそかわまさもと)が、自身に敵対する現将軍=足利義稙(よしたね=義材:10代将軍・義維の従兄弟)をクビにして、自らの思い通りになる将軍に挿げ替えたクーデターである、あの明応の政変(めいあおうのせいへん)(4月22日参照>>)で、その11代将軍に祭り上げられた人物です(当時は12~13歳)

そんな中で成長して、時には政元と対立しながらも政権を維持して来た義澄でしたが、やがて実子のいない政元の後継者を巡っての問題が大きなる中で永正四年(1507年)6月に政元が暗殺された(6月23日参照>>)後、その3人の養子(澄之×澄元×高国)の中で後継者争いが勃発するのです(9月4日参照>>)

政元を失った義澄は、やむなく細川澄之(すみゆき)との争いに打ち勝った細川澄元(すみもと)を後継と認めるのですが、このゴタゴタをチャンスと見たのが、政元に将軍を廃されながらも、地方で復活の機会を狙っていた足利義稙。。。

義稙が周防(すおう=山口県)の大物=大内義興(おおうちよしおき)を味方につけて上京すると、そこに、残ったもう一人の政元の養子=細川高国(たかくに)がくっつき(12月25日参照>>)

危険を感じた義澄は都を捨て岡山城(おかやまじょう=滋賀県近江八幡市:水茎岡山城)九里員秀(くのりかずひで)を頼って近江(おうみ=滋賀県)へと逃れ、空になった京都に義稙が入り、なんと!将軍に返り咲き。。。

Asikagayosituna500ask そして当然、不安の根を断つべく、義稙は何度も岡山城に攻撃を仕掛けて来るわけですが(2月26日参照>>)・・・
そう、本日の主役=義維さんが生まれたのは、その頃の岡山城内なのです。

この時、義維にはすでに兄の義晴(よしはる)もいましたが、
(↑厳密にはどちらが兄で弟かはわかっていませんが一般的に義維は弟とされます)

息子たちの将来を心配する義澄は、密かに、義晴を播磨(はりま=兵庫県南西部)赤松義村(あかまつよしむら)のもとに、義維を澄元の実家である阿波(あわ=徳島県)に預け、兄弟は、それぞれの地で養育される事になります。
(うんうん…リスク分散やね)

その直後・・・永正八年(1511年)8月14日、父の義澄は岡山城にて32歳という若さで病死し、その5日後に起こった船岡山 (ふなおかやま=京都市北区)の戦い(8月24日参照>>)で、澄元は義稙&義興&高国連合軍に惨敗して、やむなく阿波へと戻ります。

世は完全に将軍=義稙と、それを補佐する管領=高国の物となりました。

…とは言え、この二人も頑丈な一枚岩ではありませんでした。

それは義稙の年齢・・・1歳しか違わない前将軍=第9代・足利義尚(よしひさ)亡き後、その父である第8代将軍の足利義政(よしまさ=義稙の伯父)の死を受けて義稙が第10代将軍となった最初の時点で義稙の年齢は24~5歳でしたから、

復権を果たしたこの頃は、すでに50歳を越えていたわけですが、残念ながら、後を継ぐべき実子がいない。。。

高国としては、義父=政元の後継者争いの相手だった澄元に対抗するために、敵対する義稙と組んだものの、義稙自身に強い思い入れがあるわけでもなく、、、

義澄が亡くなり、澄元が阿波へと引っ込んだ今となっては、義稙にはさっさと若い誰かを後継者に指名して引退してもらって、なんなら、その誰かを将軍として担いでサポートした方が息の長い政権運営が期待できるわけで、、、

結局、大永元年(1521年)にギクシャクしはじめた両者は袂を分かち、義稙は京都を出奔・・・しかも義稙は、その直後に行われた後柏原天皇(ごかしわばらてんのう=第104代)の即位式にも出席しなかった事から、朝廷からの信頼も失い、幕府内でも義稙の味方をしてくれる者は皆無。。。

このゴタゴタをチャンスと見た澄元が一矢報いようと何度か試みるも、
 【腰水城の戦い】>>
 【等持院表の戦い】>>
結局、澄元は阿波にて志半ばで亡くなります。

一方、義稙を失った細川高国は、ここで将軍の交代を提案・・・なんと!保護している赤松家の政情不安を理由に赤松義村から引き離した足利義晴を京都に迎え、第12代室町幕府将軍として擁立したのです。

こうして新将軍のもと、我が世の春を謳歌する高国でしたが、この間に阿波では、亡き澄元の後を息子の細川晴元(はるもと)が継ぎ

流れ流れてこの頃に阿波にやって来ていた足利義稙が「イタチの最後っ屁」とばかりに亡くなる寸前に義維を養子にし、虎視眈々と挽回の機会を狙う事に。。。

その機会はほどなく・・・
大永六年(1526年)、高国が忠臣の香西元盛(こうざいもともり)誤解で以って上意討ちしてしまった事から、元盛の兄弟である波多野元清(はたのもときよ=稙通)柳本賢治(やなぎもとかたはる)が激怒(10月23日参照>>)・・・そう、内部分裂してくれたのです。

そして、このタイミングで「待ってました!」とばかりに重臣の三好元長(みよし もとなが=長慶の父)らを連れて阿波を出発した晴元が、大永七年(1527年)2月の桂川原(かつらかわら)の戦い(2月13日参照>>)で見事勝利し、義晴&高国組を近江坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと追いやる事に成功したのです。

いよいよ順番回って来たヨ!義維クン

とは言え、未だ不安定な新政権・・・京都は柳本賢治が山崎城(やまざきじょう=京都府乙訓郡大山崎町)にて支配する事とし、晴元は義維を堺(さかい=大阪府堺市)に迎えます。

この時の義維が、朝廷から左馬頭(さまのかみ=足利家後継者に与えられる官職)に任じられた事や、堺大樹(さかいたいじゅ=大樹は将軍)あるいは堺公方(さかいくぼう)と呼ばれたり、周囲の奉公人が幕府同然の体制だった事から、「堺幕府(さかいばくふ)と言われたりします。
(堺幕府に関しては3月1日の真ん中あたり参照>>)

実際に、どこまで幕府の体を成していたか?には疑問が残りますが、この時点で近江へ逃れた義晴&高国一行の政権が機能していない以上、わずかな間とは言え、義維を中心にした幕府のような体制が出来上がっていた事は確かでしょう。

しかし上記のページ>>にも書かせていただいたように、ここが「幻の堺幕府」と呼ばれるほどに、これも長くは続きませんでした。

わずか数年で内部崩壊が始まって三好元長が阿波に帰ってしまうと、坂本へ退いていた高国が画策し、柳本賢治を暗殺して摂津(せっつ=大阪府北部)へ侵出・・・これには慌てて晴元が元長を呼び戻して高国を撃破させた事で事なきを得ます【大物崩れの戦い】参照>>)

なんとここで晴元は、高国を失った義晴に近づいたのです。

しかも、義維への義理を欠く行動に怒る元長に対し、元長と敵対する木沢長政(きざわながまさ)を重用し、山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)の力を借りて元長を自刃に追い込んでしまいます。

この時、義維もともに自刃しようとしますが、晴元方の者に捕らえられ幽閉の身に。。。

堺幕府の消滅とともに一旦淡路(あわじ)に居を構えた義維は、細川氏之(うじゆき=阿波細川家当主)の招きによって再び阿波にて暮らす事となります・・・もちろん、ひたすら大人しく。

このあと、ちょっと間は義晴&晴元体制が続きますが、先の戦いで晴元が頼った山科本願寺=一向一揆があまりに強くなった(【大和一向一揆】参照>>)ために、

晴元は、今度は法華宗(ほっけしゅう)を頼って本願寺潰し(【山科本願寺の戦い】参照>>)。。。

それで法華宗が強くなると比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)に頼んで法華潰し(【天文法華の乱】参照>>)。。。

おかげで京都は焼け野原。。。

やがて天文十二年(1543年)頃から、亡き高国の養子=細川氏綱(うじつな)が動き出すと、これまで自身の幼さ(父の死の頃は10歳前後)故、やむなく父を死に追いやった晴元の下についていた息子三好長慶(ながやす)氏綱の味方をして晴元に反発し(9月14日参照>>)

天文十八年(1549年)6月には江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦い(6月24日参照>>)に勝利して、将軍=義晴と晴元を近江坂本に追いやり、細川氏綱と三好長慶が京都を制圧します。

この翌年に義晴は近江にて病没し、将軍の座を息子の足利義輝(よしてる=第13代将軍)が継ぐと、(義輝が長慶を倒したいので)しばらくの間は新将軍=義輝と京都争奪戦をくりかえすものの(【白川口の戦い】参照>>)

結局永禄元年(1558年)11月、義輝と長慶の間に正式な和睦が成立し、義輝は将軍として京都に戻る事となったのです(11月27日参照>>)

この間、阿波に引っ込んでいた足利義維が、近江に退いて没落気味の義晴&義輝父子に代って、自らを次期将軍に擁立させようと試みる場面があったり、逆に長慶からの声掛けなどもありましたが、いずれも実現には至らず、

こうして義輝と長慶の和睦が成立してしまうと、もはや義維の出番は完全になくなりました。

ところが…です。

世の中わからぬもの・・・三好長慶の弟たちが次々亡くなって
 ●【十河一存死去】>>
 ●【三好実休が討死】>>
三好政権に陰りが見え始め、やがて長慶自身も病を得て亡くなる(5月9日参照>>)

後継者となった三好義継(みよしよしつぐ=長慶の甥:十河重存)を担いだ三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)松永久通(まつながひさみち=松永久秀の息子)らが、永禄八年(1565年)5月に義輝を暗殺(5月19日参照>>)、次期将軍に義維の息子である足利義栄よしひで=14代将軍)を擁立したのです。

とは言え、三好三人衆らは、はなから義栄を担ごうと考えていたわけではなく、本来は将軍家に頼らない自らの政権樹立を目指していたようですが、義輝暗殺の際に幽閉先から逃亡した(7月28日参照>>)弟の足利義昭(よしあき)が朝廷から例の左馬頭に任じられたり、自らを奉じて上洛する武将を探していたりする事を知って、

「そうなる前に!」
とばかりに、阿波にいる義栄に白羽の矢を立てたのです。

かくして、阿波から上京した義栄は、永禄十一年(1568年)2月8日に朝廷からの将軍宣下を受け、第14代・室町幕府征夷大将軍となるのです。

義維さん、自らの堺公方は将軍と認められずに悔しい思いをしたかもしれませんが、ここで晴れて将軍の父になる事はできました。

これに慌てたのは越前(えちぜん=福井県北東部)に滞在して、自らを擁立してくれる武将や有力寺院を探していた足利義昭・・・(10月4日参照>>)

これまで声をかけていた越前の朝倉(あさくら)越後(えちご=新潟県)上杉(うえすぎ)といった名門を諦めて、客将として越前に滞在していた明智光秀(あけちみつひで)が紹介してくれた織田信長(おだのぶなが)で手を打つ事にしたのです。

ところが、ご存知のように、この信長が強かった。。。

永禄十一年(1568年)9月7日に義昭を奉じて岐阜(ぎふ)を発つと、あれよあれよと言う間に敵を蹴散らし(もちろん三好三人衆も)(9月7日参照>>)て上洛を果たし、10月18日には朝廷は、今度は義昭に宣下を下し、第15代将軍=足利義昭の誕生となるのです(10月18日参照>>)

信長によって、当時滞在していた摂津富田(とんだ=大阪府高槻市)も焼き払われてしまった義栄は、自身が病を得ていた事もあって、大人しく阿波に戻って養生する事にしますが、残念ながら、ほどなく(10月頃?)病が悪化してこの世を去ってしまうのです。

息子を失った義維は、もう一人の息子=足利義助(よしすけ=義栄の弟)とともに阿波に戻り、平島(ひらしま=徳島県阿南市)にて静かな余生を送る事になるのですが・・・

いや、静かな…というよりは、この後の記録が皆無といった感じの晩年になってしまうわけで、、、

こうして天正元年(1573年)10月8日、望むと望まざるとの関わらず、波乱万丈な人生を送った足利義維はその生涯を終えたのでした。

奇しくもこの年は、足利義昭が織田信長に京都から追放されて事実上室町幕府が滅亡(8月23日参照>>)、この7月に信長自らの要請によって元号が天正と改元された年でもありました。
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コメント

足利義維は尊氏以降の足利氏の人物の中では、「江戸時代までの時期の人物」としては最も長命の位置にいる人物では?享年で見ると息子らのライバルだった義昭より何歳か上であるので。
足利氏は30歳以下で亡くなった人が多いです。

投稿: えびすこ | 2025年10月14日 (火) 21時42分

えびすこさん、こんばんは~

昔はね。。。
戦国時代は平均寿命が40代ですから…
まぁ、幼くして亡くなる子供たちも大勢いたでしょうし…

幕末でも平均寿命は50代。。。
♪村の渡しの船頭さんは~
 今年60のおじいさん~
 年はとっても お舟を漕ぐときは
 元気いっぱい艪がしなる~
 ギッチラギッチラギッチラコ~♪
昭和でもコレ↑ですから

投稿: 茶々 | 2025年10月15日 (水) 03時41分

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