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2025年10月15日 (水)

足利義明が小弓城へ~小弓公方と真理谷武田氏

 

永正十四年(1517年)10月15日、真理谷恕鑑の支援を受けた足利義明が小弓城に入城し小弓公方と称しました。
(現在は永正15年=1518年7月説もあるのですが、とりあえず本日の日付でupさせていただきます)

・・・・・・

※これまで何度も登場しているので今更…ではありますが、鎌倉(関東)公方についての一丁目一番地からご紹介を。。。。

そもそも室町幕府初代将軍となった足利尊氏(あしかがたかうじ)が、京都にて幕府を立ち上げた事で将軍として京都に在住せねばならず、どうしても領国=関東の経営がやり難くなる。。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図→
(クリックで大きくなります)

そこで尊氏は、自身の三男であった足利義詮(よしあきら=2代将軍)に将軍職を継がせ、四男だった足利基氏(もとうじ)初代鎌倉公方(かまくらくぼう)として関東支配をさせ(9月19日参照>>)以後、その息子たちの家系が将軍と鎌倉公方を継いでいく事になります。

ちなみに、京都にて将軍を補佐するのが執事(しつじ)からの管領(かんれい)と同じように、関東にて公方を補佐するのが関東執事(しつじ)からの関東管領(かんとうかんれい=ほぼ上杉家の独占状態)という事になります。

しかし、そんな関係はやがてギクシャクし始める・・・そのキッカケの一つが第6代将軍足利義教(よしのり)第4代鎌倉公方足利持氏(もちうじ)の関係。

そもそも…先々代の第4代将軍=足利義持(よしもち)が、息子の足利義量(よしかず=第5代将軍)に将軍職を譲ったものの、義量は子供がいないまま父より先に死に、その3年後に父の義持も次期将軍を指名しないまま亡くなってしまった事で、

やむなく次の将軍を義持の弟の中からくじ引きで選んだのが第6代の足利義教だったわけですが、同時期に鎌倉公方だった足利持氏は義持の猶子(ゆうし=養子)だったという事もあり、そうなると
「俺もくじ引きに参加する権利あるんちゃうん?」
義教の将軍就任に納得がいかないのも、うなづける。。。

その反発は、とうとう永享の乱(えいきょうのらん)という反乱を起こし、持氏は永享十一年(1439年)2月に自刃して果てます(2月10日参照>>)

このため、関東一帯は有象無象の管理者無し状態(と言っても乱の時に公方ではなく幕府方だった関東管領の上杉家は健在…)まま、その2年後の嘉吉元年(1441年)6月に、将軍=足利義教が酒宴の席で赤松満祐(あかまつみつすけ)殺害されてしまったのです「嘉吉の乱」参照>>)

かねてより、
このまま管理者不在の状態では示しが着かないと考えていた関東管領らは、持氏と直接敵対した将軍の義教がいなくなった事を受けて、

持氏の遺児で当時は幼子だった(なので乱の関与してない)四男足利成氏(しげうじ)新たな鎌倉公方とし、関東管領には上杉憲忠(のりただ=山内上杉家9代当主)が就任して、何とか事は治まりました。

しかし公方に就任した成氏は、そもそも父と敵対して幕府についた上杉家(上杉家は幕府&将軍側)を良く思うわけがなく、ずっと父の味方でいてくれた結城氏(ゆうきし)「結城合戦」参照>>)安房(あわ=千葉県南部)里見氏(さとみし)などを重用するようになっていき、またまた関東がギクシャクし始めます。

やがて上杉家の家宰(かさい=江戸時代の家老みたいな役職)長尾景仲(ながおかげかね)成氏の館を襲撃したかと思えば、成氏が自らの御所に上杉憲忠を呼び寄せて騙し討ちする享徳三年(1454年)に、そのギクシャクは乱に変わります。

そして…
そんな上杉方が一連の出来事を幕府に報告するとともに、第8代将軍となった足利義政(よしまさ)から「成氏討伐」の許可を得た事を知った成氏は、一旦鎌倉を捨てて身を隠しますが、

その間に幕府から派遣された今川範忠(いまがわのりただ=駿河守護)鎌倉を占拠されてしまったために成氏は鎌倉に戻れなくなり、やむなく下総(しもうさ=千葉県北部・茨城県南西部・埼玉県東辺・東京都東辺の隅田川東岸)古河(こが=茨城県西部)に入って古河城(こがじょう=茨城県古河市)を御所とした事から、以後の成氏は古河公方(こがくぼう)と呼ばれます。
(↑幕府から討伐命令でてるので正式な公方ではなく自称です)

一方、そうなると
当然の事ながら幕府は成氏に代わる正式な鎌倉公方を新たに派遣せねばならないわけで・・・

そこで将軍義政は異母弟の足利政知(まさとも)を正式な鎌倉公方として関東に送り出しますが、かの成氏が暴れ回ってるせいで関東の諸将たちも、皆入り乱れて戦いまくってたため、この政知さんも鎌倉に入れず・・・やむなく伊豆堀越(ほりごえ=静岡県伊豆の国市)に留まって拠点としたため以後、コチラは堀越公方(ほりこしくぼう・ほりごえくぼう)と呼ばれます。
(関東に入れてませんが一応正式な関東公方です)

ちなみに、この政知さんの次男が先日(8月14日参照>>)ご紹介した放浪将軍となりながらも次世代で血脈を繋いだ足利義澄(あしかがよしずみ=11代将軍)で、その後はこの家系から代々の将軍が出るので、足利政知さんは初代堀越公方でありながらこのあとの将軍たちの祖という事になります。

とは言え、
この堀越公方は、政知の長男の足利茶々丸(ちゃちゃまる)が、素行が悪くて父から廃嫡(はいちゃく=後継者でなくなる事)されたのにも関わらず、後継者争いの相手となる弟(政知の三男)足利潤童子(じゅんどうじ)を殺害してムリクリで第2代堀越公方を継ぐのですが、

結局は後の延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年)に、あの北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)に討ち入られ、堀越公方は事実上滅亡します(10月11日参照>>)

ちなみに、この伊豆討ち入りが、幕府の正式な公方を一武将が滅ぼした大事件ながら、北条早雲が(幕府から見て)謀反人とされないのは、上記の通り、茶々丸の方が正統な後継者を殺害した謀反人で、早雲は「その仇を討った」という体で話を治めたから…とされます。

とにもかくにも、
こうして残ったのが、かつては幕府公認~今は自称の古河公方です。

しかし、やはりここも家督の分断は避けては通れませんでした。

散々関東を暴れ回った足利成氏が、鎌倉に戻る事無く古河にて死去した(9月30日参照>>)明応六年(1497年)、

嫡子であった足利政氏(まさうじ)が第2代古河公方を継ぎますが、早くも、その数年後の永正3年(1506年)頃から長男の足利高基(たかもと=政氏の嫡子)と対立するようになります。

この公方父子の内部分裂は、同時に周辺領主の内部分裂をも巻き込んで永正九年(1512年)には大きな衝突もありました。

同時に関東管領である山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)の内部分裂が公方家の分裂と結びつき、
 ■足利政氏⇔上杉顕実(あきざね=政氏弟から上杉顕定の養子へ)
 ■足利高基⇔上杉憲房(のりふさ=上杉憲忠の甥から上杉顕定の養子へ)
の構図が生まれます。

そんなこんなの永正十三年(1516年)、北条早雲は新井城(あらいじょう=神奈川県三浦市)三浦義同(みうらよしあつ)を攻めて三浦を滅ぼし、相模(さがみ=神奈川県)を制覇しますが(7月13日参照>>)

同じ頃、古河公方父子の内部抗争も早雲に支持された息子=高基が優勢に転じます。

これが、すでに仏門に入っていた次男=弟を刺激するのです。

Asikagayosiakioyumikaou500cc その次男=弟は、当時、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市)若宮別当(わかみやべっとう=長官)雪下殿(ゆきのしたどの)の地位にあって空然(こうねん)と号していましたが、

還俗(げんぞく=出家者が一般人に戻る事)して足利義明(あしかがよしあき)と名乗り、兄=高基に対抗するのです。

そんな義明を支援するのが真里谷城(まりやつじょう=千葉県木更津市真里谷)真里谷恕鑑(まりやつじょかん)。。。

彼は出家前の元の名を武田信清(たけだのぶきよ=信保とも)と言って、あの信玄と祖を同じくする武田氏

ご存知のように甲斐(かい=山梨県)の守護(しゅご~県知事)を務める武田信玄(しんげん)の武田氏は、あの八幡太郎源義家(はちまんたろうみなもとのよしいえ)の弟=新羅三郎源義光(しんらさぶろうみなもとのよしみつ)祖とする源氏の流れを汲み、

源頼朝(みなもとのよりとも)鎌倉政権樹立にも一役買い(10月20日参照>>)承久の乱(じょうきゅうのらん)(5月29日参照>>)でも活躍した事から由緒正しき甲斐守護であったものの、

第11代目当主の武田信重(たけだのぶしげ=信重から6代目が信玄です)の頃から始まった後継者争いによる内紛で衰退し、もはや名ばかりの守護無能状態(7月22日参照>>)を嫌がって房総半島に逃げた一部の武田の人が立ちあげたのが真里谷(まりやつ)武田だったわけで。。。

そう…
実は、この頃の房総半島は、未だ突出した武将がいない群雄割拠状態・・・皆が房総半島から関東一円の支配を目論む野望を持っていたわけですが、それには、やはり、それなりの看板が欲しいわけで、

その相応しい看板だったのが古河公方の父子…であったわけです。

こうして真里谷恕鑑に担がれた足利義明は、永正十四年(1517年)10月15日小弓城(おゆみじょう=千葉県千葉市中央区)に入り、父とも兄とも袂を分かつ形でここに拠点を置き、小弓公方(おゆみくぼう)と称して、関東支配を目指して行く事になります。

※今後の関連ページ
 ●第1次国府台の戦い>>
 ●逃避行で初恋を実らせた里見義弘と青岳尼>>>
 ●真理谷武田家の後継者争い~上総錯乱>>
 ●真里谷武田氏の滅亡~椎津城の戦い>>
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コメント

小弓城跡のそばには京成千原線「おゆみ野」駅があります。
なお小弓城と同じ千葉市内にあるのが亥鼻城。
来年はこの亥鼻城周辺を千葉氏が拠点としたことで、都市としての「千葉」ができて900周年です。

ところでこのブログの姉妹版と言える「京阪奈ぶらり歴史散歩」が終わりとなりましたが、このブログは来年以降も残りますか?

投稿: えびすこ | 2025年10月17日 (金) 22時50分

えびすこさん、こんばんは~

近くに史跡があるのはウレシイですね。

ブログは…
どうでしょうねぇ~
ホームページと同様に、
サービスが継続されるか?どうか?
ですかね。

時世の流れとしてはヤフーブログもgooブログもサービスが終わっちゃいましたからね~

今もココログが残ってる事がラッキーなのかも?です

投稿: 茶々 | 2025年10月18日 (土) 03時09分

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