小一条院敦明親王と高階成章~東寺の暴行事件
治安元年(1021年)11月8日、東寺近くの路上にて高階成章が小一条院の従者から暴行を受けました。
・・・・・・・・・
本日の主役(被害者側)=高階成章(たかしなのなりあき)は、平安貴族の高階業遠(なりとお)の四男で、ご本人も、もちろん貴族のお坊ちゃん。。。
長和五年(1016年)に、藤原道長(ふじわらのみちなが)の長女である藤原彰子(しょうし=あきこ)が産んだ敦成親王(あつひらしんのう)が、三条天皇(さんじょうてんのう=第67代)の後を継いで、わずか9歳で後一条天皇(ごいちじょうてんのう=第68代)として即位した時に六位蔵人(ろくいのくろうど)に任ぜられ、以降は公卿(くぎょう=太政官の高官)の子弟として順調に出世していくわけですが。。。
それはひとえに父ちゃんの高階業遠が、この「後一条天皇の即位=外孫が天皇になった事」を受けて摂政(せっしょう=幼天皇の補佐)となり、我が世の春を迎えた藤原道長のお気に入りだった事に他なりません。
父ちゃんの高階業遠は、藤原道長一家の家政を担う側近として仕え、藤原実資(さねすけ)の日記=『小右記』によれば、
「彼は藤原家の執事(しつじ)のような立場で「無双の者」と称されていた」
ようで、道長の忠実な手駒であった事は間違いなさそうです。
とは言え、上記の通り
「9歳の孫をムリクリで天皇にして我が世の春…」
を道長が迎えていた(10月16日参照>>)という事は、
逆に、そのムリを押し通された側の方がいるわけで。。。
それが…
(すでにブログにて何度かご紹介させていただいてますが…)
上記の後一条天皇に譲位する三条天皇様ご一家です。
晩年には眼病を患いながら
「ウチの孫に(天皇の位を)代ったって~」
と迫る道長に、なんとか抵抗する三条天皇は、
「ほな、その次はウチの息子を天皇にしてな」
という条件をを付けて譲位し後一条天皇の即位…となったわけですが(1月29日参照>>)
この時、後一条天皇はわずか9歳で、皇太子(こうたいし=次の天皇)となった敦明親王(あつあきらしんのう=三条天皇の第1皇子)は23歳といういびつな順番になったわけで・・・
…で、この敦明親王が本日のもう一人の主役(加害者側)となる方です。
とにもかくにも…こうして
「次の天皇はウチの息子の敦明クンやで」
と約束して譲位した三条天皇でしたが、
残念ながら、その翌年にお亡くなりになってしまった事で、皇太子の敦明親王は後盾を失い、完全に孤立無援となってしまうのです。
そう…すでに寛仁元年(1017年)3月に、摂政と藤氏長者(うじのちょうじゃ=藤原氏の代表)を嫡男の藤原頼通(よりみち)に譲っている道長ではありますが、未だその勢いに衰えはなく、後一条天皇の皇太子には敦明親王ではなく、自身の孫=敦良親王(あつながしんのう=後一条天皇の弟)を据えたい感丸出しなわけで、、、
空気を読んだ…てか、おそらくはモーレツなプレッシャーをかけられたであろう敦明親王は、自ら廃太子(はいたいし=皇太子でなくなる事)を申し出るのです。
とは言え、父と同様…交渉はバッチリします。
敦明親王は皇太子の座を譲る代わりに小一条院(こいちじょういん)という尊号を贈ってもらい准太上天皇(じゅんだいじょうてんのう)の位を得たのです。
准太上天皇の「准」は、もちろん「准ずる(同様に扱う・習う)」の「准」で、「太上天皇」というのは「すでに皇位を譲った天皇」の事。。。
つまり、実際には天皇になってないけど、なったテイにして尊号を贈った・・・という事です。
孤立無援の後盾無し状態から、ここまで持って来るとは!!!敦明親王改め小一条院、なかなかにスゴ腕の交渉術ですな。。。
しかも、このあと道長の三女=藤原寛子(かんし=妻:源明子との娘)の婚姻も済ませた小一条院。。。
一方の道長も、現天皇が孫なら次の天皇(皇太子)も孫、しかも寛仁二年(1018年)には、その天皇のもとへ入内(じゅだい=后妃が正式に内裏に入る事)していた道長四女の藤原威子(いし・たけこ)が立后(りっこう)=皇后になるという事で大満足。。。
とは言え…やっぱり・・・
小一条院には…
モンモンと残る言いようのない気持ち・・・
さすがに大権力者の道長に向ける事はできないものの、その配下となれば話は別・・・だって現実の位は准太上天皇なんですからね~小一条院さんは。。。
…で、ちょうど良い感じで鬱憤を晴らせるターゲットだったのが、道長の側近(小一条院から見れば腰ぎんちゃく)の高階業遠の、それも息子だった高階成章…というわけです。
かくして治安元年(1021年)11月8日、場所は東寺(とうじ=京都市南区九条町:教王護国寺とも)近くの交差点。。。
この日、たまたま宇治(うじ=京都府宇治市)の別荘に遊びに行ってた小一条院が、平安京へと戻って来たところに、
これまた、たまたまそこにいた高階成章。。。いきなり頭髪をつかまれて、地面に這いつくばらされ、大勢に囲まれて殴る蹴るの暴行を受けるのです。
もちろん小一条院が直接手を出すわけはなく、親王は馬に乗ったままの高みの見物・・・彼についていた従者たちが(おそらくは小一条院の命により)一斉にとびかかって高階成章を袋叩きにしたわけです。
衣装はズタボロ、髪はクシャクシャ、しかも大勢が目にする公道で…未だ出世途上の中級貴族とは言え、貴族のメンツ丸つぶれ。。。
しかし相手は准太上天皇の称号を持つ小一条院。。。
小一条院もある意味ウマイ…これ以上やったら、さすがの小一条院でも問題になるであろう手前で止めて、何事も無かったかのように終わらせるのは、わざとですよね?
とは言え、この暴行事件は、起きるちょっと前から朝廷内で噂になっており、実はお公家さんの間でも予想されていた事らしい。。。
…というのも、この頃の高階成章は紀伊守(きいのかみ)という役職についていて、紀伊国(きいのくに=和歌山県)の荘園の権益に関する仕事をしていたわけですが、その中で、紀伊国に荘園を持っている小一条院と高階成章との間に何かしらのトラブルがあったようで、
高階成章が国司の権限で以って親王の荘園の権益を損なうような事があったらしい・・・(←あくまで予想)
何があったのか?くわしくは記録されていないのですが、
「もうすぐ何かあるかも知れない」
と公卿たちの間で予想されていた事は確かなようなので、おそらく高階成章は何かヤラかしたにも関わらず、藤原道長という後盾を笠に着て親王に対して横柄な態度をとったのかも知れません。
それなら「どっちもどっち」な気がしないでもない。。。
ただし
小一条院は、この1年半ほど後の治安三年(1023年)4月17日に、兄である高階業敏(なりとし)もボコボコにしてるので、やっぱ、この高階兄弟は、小一条院が鬱憤をぶつけやすい相手だったのかも知れません。
ま、
小一条院は、この前年にもヤラかしてますので、相手関係なく、もともとそういう方なのかも…
そのくわしいお話は【平安貴族殺害事件~源政職の最期】>>でどうぞm(_ _)m
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