困窮する天皇家~後柏原天皇の即位料募金
文亀元年(1501年)11月13日、幕府が後柏原天皇の即位料を諸大名に要請しました。
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明応九年(1500年)10月25日の後土御門天皇(ごつちみかどてんのう=第103代)の崩御を受けて、すでに37歳になっていた第1皇子の勝仁親王(かつひとしんのう)が、第104代=後柏原天皇(ごかしわばらてんのう)として践祚(せんそ)します。
践祚というのは「その地位に就く」という意味で、要は天皇になった事を表します。
どなたかが天皇になった時によく使われる即位(そくい)というのは、天下万民に天皇の位についた事を知らせる儀式の事です。
そう・・・実は、応仁元年(1467年)から約10年に渡って全国の大名が東西に分かれて戦ったあの応仁の乱(おうにんのらん)(5月12日参照>>)の影響で、世の中が疲弊し、朝廷も困窮状態が続いていたのです。
先帝の葬儀だけは、なんとか崩御から43日後に行われましたが、とてもとても…儀式的な物をやる余裕もないわけで。。。
践祚奉行には広橋守光(ひろはしもりみつ)、関白(かんぱく=成人天皇の補佐役)には一条冬良(いちじょうふゆら)が就任して、
翌年2月に、朝廷も世の中も心機一転すべく元号を明応(めいおう)から文亀(ぶんき)にし、この文亀元年の12月に即位式を行う予定で準備が開始されます。
とは言え、いくら元号を改めたって、現実問題としてお金が降って湧いて来るわけはなく、無いものは無い!!!
やむなく朝廷は武家伝奏(ぶけてんそう=武家と朝廷のパイプ役)の勧修寺政顕(かじゅうじまさあき)を通じて政所執事(まんどころしつじ=幕府財政管理)の伊勢貞陸(いせさだみち)に費用の捻出を依頼したのです。
かくして文亀元年(1501年)11月13日、幕府が後柏原天皇の即位料を諸国に課す=つまり諸大名に税金として即位式費用の一部を支払うよう要請したのです。
天皇様ともあろうお方が、なんともお気の毒な気がしますが、幕府とて
「ほな、俺ら幕府が仕切ります!」
てな二つ返事で引き受けられず、各人に出してもらおうとするところが何とも情けない。。。
しかも、大々的に寄付を募ったワリには大した額は集まらず、結局、即位式は延期となってしまいました。
とは言え、個人的には「そんな中でも、ある所にはあった」という感がぬぐえません。
…というのは、この頃の事実上の最高権力者と言えば、
(このブログでも度々登場してますが…)
この7~8年前の明応二年(1493年)4月に、時の将軍=足利義稙(よしたね=義材:第10代将軍)を追放して自らの思い通りになる足利義澄(よしずみ=清晃:第11代将軍)を擁立した明応の政変(めいおうのせいへん)なるクーデター(4月22日参照>>)を決行した管領(かんれい=将軍の補佐役)の細川政元(ほそかわまさもと)なわけですが、
そんな細川政元が応仁の乱で焼失したままになっていた龍安寺(りょうあんじ=京都市右京区龍安寺)を再建したのが明応八年(1499年)6月・・・
今や世界的に有名になったあの石庭が完成したのが、この再建の時とされています(6月26日参照>>)。
メッチャ持ってはりますやん(●´□`)
ところが、この細川政元が、あまり即位式に乗り気じゃなかったらしい。。。
実のところ、政元に擁立されて将軍となっていた足利義澄が朝廷に献金しようとしたところ、
「即位礼をやったところで実力や徳が伴ってなかったら王にはなれんし、王になれる素質のある天皇は即位礼なんかやらんでも認められる物…このご時世に大掛かりな儀式なんかいらんやろ~」
と反対したのだそう。。。
父ちゃん(=細川勝元)が建てた龍安寺は再建しといて、その言い草か?
って思っちゃいますが、ちょっと政元さんの味方をするなら、
実は先の応仁の乱で内裏(だいり=天皇の住居)や紫宸殿(ししんでん=正殿)だけではなく、政務を司る太政官庁(だいじょうかんちょう=現在の国会議事堂みたいな?)まで焼失していて、
もし即位礼のような大きな儀式をやるなら、まずは、そこから建て直さねばならず、費用云々だけでなく、期間や人材もそれなりにいるわけで、ちょっとやそっとで、
「ほなやりまっさ!」
とはいかない話だったのですよ。
とにもかくにも、最高権力者の政元さんがそう言うので、当然、配下の皆さんも右にならえで寄付も集まらない…そうなるといつまでたっても即位式の話はウヤムヤなまま・・・
文亀四年(1504年)には、再びの心機一転で永正(えいしょう)元年に改元され、その前後にも、また別の時にも、
「即位礼…する?」
って話は出るものの、結局またまた延期・・・てな事が何回が続く。。。
…で、結局、践祚から22年後の大永元年(1521年)3月22日、経費削減でいくつかの儀式はスルーされたものの、何とか無事に即位礼が行われたのでした。
どうやら、ここんとこ羽振りの良い本願寺(ほんがんじ=当時は山科本願寺:浄土真宗の本山)から大量の寄付があったのと、すでに世は、足利義稙の将軍返り咲き(12月15日参照>>)に、細川高国(たかくに=政元の養子)の実力急上昇時代(5月5日参照>>)に代っていたので…まぁ、単に反対派が減ってスポンサーが出て来たって事なんでしょうけど。
時に、後柏原天皇は58歳になられていたとか。。。
とは言え、そんな境遇の中でも後柏原天皇自身は、常に朝廷の再興に向けて努力をされ、儀式復活にも力を入れながらも国民の平安に心を砕き、
騒乱が起ると伊勢神宮(いせじんぐう=三重県伊勢市)に和平の祈願を行い、疫病が流行ると写経をして延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)などに納めて、いつも民衆の安寧を願っておられたのだとか。。。
一説には、現在も続く宮中の歌会始(うたかいはじめ)は、この後柏原天皇の代から始まったとされます。
朝廷の復興&復権を願いながらも清貧に過ごされた天皇は、大永六年(1526年)4月7日、63歳で崩御されます。
志叶わず去った後柏原天皇の朝廷復興の願いが実現化するのは、お孫さんである正親町天皇(おおぎまちてんのう=第106代)の時代・・・
そう、あの織田信長(おだのぶなが)という唯一無二の武将の登場によって、天皇家が儀式費用の心配をする事は無くなった?という事ですねwww
※参考ページ
●天皇の権威復活~正親町天皇と織田信長
●織田信長の蘭奢待削り取り事件の真意
●天皇に対する信長の態度は強圧的ではない?
●皇室の権威復活を目指す~正親町天皇の歩き方
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コメント
これって応仁の乱のせいではなくって、政元さんのせいなんじゃないかと思う。
政元さんって知れば知るほど、戦国時代ってこの人のせいなんじゃって思えてくるんですよね。
投稿: ことかね | 2025年11月14日 (金) 00時35分
ことかねさん、こんばんは~
>戦国時代ってこの人のせいなんじゃっ…
そうですよね。。。
西の戦国は政元さんで、東の戦国は北条早雲??
明応の政変と伊豆討ち入りが、ほぼ同じ時期に起こってますものね~
ま、西の将軍家に、東の鎌倉公方…
この両足利家がややこしい事になり始めてたのも確かですが
投稿: 茶々 | 2025年11月14日 (金) 03時07分
この少し後の時期に来日したフランシスコ・ザビエルが、荒廃した京の都を見て「帝に頼んで布教の許可を得る」と言う方針を断念していますね。
政元以降の細川氏や三好氏が畿内を抑えていても、朝廷への財政支援は不十分だったんですね。
>ことかねさん
詳しくは「新九郎、奔る」を読むとわかります。
投稿: えびすこ | 2025年11月14日 (金) 10時07分
えびすこさん、こんばんは~
後柏原天皇の次の後奈良天皇も即位礼を行ったのは践祚から10年後でしたからね~
その時は、大内・今川・北条・朝倉なんかが献金してますね
投稿: 茶々 | 2025年11月15日 (土) 04時16分
>えびすこさん
愛読しておりますともw
その漫画を読んでいて思ったんですけど、最初の下克上って朝倉氏になるのでは?早雲と何が違うのかな?
投稿: ことかね | 2025年11月16日 (日) 01時12分
ことかねさん、こんばんは~
完全に横からですし、
おっしゃる漫画を読んでないのでトンチンカンなコメントになってるかも知れませんが
(あまりにトンチンカンなら無視してください)
朝倉が斯波に取って代わるのは応仁の乱のすぐあとくらいなので時系列でいくと早いと思います。
そして、守護代が守護に取って代わるのも下剋上なので、間違い無いとは思いますが、
早雲の場合は、取って代わる相手が関東公方=足利家なので、守護と守護代の下剋上とはちょっと違う気がしてます。
(↑あくまで個人の意見です)
投稿: 茶々 | 2025年11月16日 (日) 01時57分
なるほど。元の地位の違いだと。
確かに、古河公方と関東管領の関係を下克上とは言わないか。
投稿: ことかね | 2025年11月17日 (月) 03時11分
ことかねさん、
公方と関東管領の関係と言えば…
足利持氏と上杉禅秀がモメ出すのが応永二十三年(1416年)なので、応仁の乱よりも早いですね
永享の乱のおおもとも、そこらあたりなので…考えたら関東の混乱は早かったですね
投稿: 茶々 | 2025年11月17日 (月) 06時24分