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2025年11月27日 (木)

東大赤門建立~加賀前田家に嫁いだ将軍の娘…徳川溶姫

 

文政十年(1828年)11月27日、 加賀前田家の江戸藩邸に御守殿門=現在の東大赤門が建立されました。

・・・・・・・

日本を代表する大学である東京大学(とうきょうだいがく=東京都文京区)本郷キャンパスの校門の一つである赤門(あかもん)は、その名称そのものが大学の俗称として使われるくらい有名です。
(生粋の大阪のオバちゃんである茶々もさすがに知ってるww)

また、それが旧加賀藩(かがはん=石川県)前田家(まえだけ)江戸藩邸(えどはんてい)の門だった事も有名ですね。

この門は(たん=この文字の色です)塗りで赤かった事から、上記の通り通称「赤門」と呼ばれてますが、

正式には、藩邸の正門に対して御守殿(ごしゅでん)に入るための門として御守殿門(ごしゅでんもん)と呼ばれる門です。

…で、この御守殿というのが、徳川将軍家の姫が三位以上の大名のもとへ正室として嫁ぐ時に建築する御殿で、結婚後はそこに居住する建物・・・もちろん、その門も同時に立てられた事になります。

Youhime600as 今回の場合は、将軍家から嫁をもらったのが第12代の加賀藩主=前田斉泰(まえだなりやす)で、

嫁いだ姫は、第11代将軍=徳川家斉(とくがわいえなり)二十一女で、
その名を溶姫(やすひめ・ようひめ)と言います。

てか、にじゅういちじょw(@o@)wって…あーた。。。
そう、この家斉さん、
以前、書かせていただいた40人の側室との間に55人の子供をもうけた、あの将軍様です(1月7日参照>>)

とは言え、
そのページにも書かせていただいたように、この55人のうちで成人した人は25人、

その25人のうちの1人である徳川家慶(いえよし)が第12代将軍となって34人の子供をもうけますが、

その34人のうち成人したのは徳川家定(いえさだ=13代将軍)一人だけで、しかも家定は子供を残す事無くお亡くなりになる(7月6日参照>>)わけで・・・

そういう時代なので、将軍家の血を絶やさないための「産めよ!増やせよ!」だったわけですからね。

ちょいと話がソレましたが…
かくして、その溶姫様のためにと
文政十年(1828年)11月27日、加賀藩の江戸藩邸に御守殿門が建立されたのです。

今年で197年。。。そのうち約50年ほどが溶姫様の赤門で、残りの約4分の3の150年ほどが東大の赤門という事になります。

この時代、嫁ぐと言っても溶姫さんが、加賀へ行く事は無く、ずっと江戸藩邸で暮らしますが、
(妻子が人質状態の参勤交代ですから…)

何と言っても、将軍家の姫ですから、以前に将軍家から尾張徳川家へ嫁いだ千代姫(ちよひめ)(12月10日参照>>)のように、おそらくは、かなりの特別扱いであったろうと思います。

ただ、千代姫の元禄時代と違い、溶姫は、もはや幕末も見え始めてる時代ですからね~~

そう…上記の通り、文政十年(1828年)に11歳で嫁いだ溶姫は、最初の方こそ、大奥からついて来た溶姫付のお女中が幅を利かして、新たに加賀藩が付けたお女中たちを圧倒していたようですが、

やがて世は、幕府の弱さが露呈する時代になり、加賀藩からの文句というか(幕府への)鬱憤が溶姫自身に向けられるようになり、これには溶姫も大いに悩まされたようです。

この間、参勤交代制が緩んだ文久三年(1863年)に1度金沢入りするも、わずか1年後に再び江戸に戻る溶姫さん。。。

そんな中、世が慶応(けいおう=1865年~)に入り、まさに幕末真っ只中になると、溶姫が将軍家の人である事や、その御付が徳川の家臣である事で加賀藩は身動きが取れなくなり、

加賀百万石と言われた大藩であるにも関わらず、幕末&維新の波に乗れず、政局に関して大した結果を残せなかった事は皆様ご承知の通り。。。

その後、慶応四年(1868年)に戊辰戦争(ぼしんせんそう=鳥羽伏見の戦い)が始まると(1月3日参照>>)
「いよいよ江戸も危険」
って事で、

溶姫は、夫=前田斉泰の隠居を受けて第13代藩主となっている息子の前田慶寧(よしやす)の計らいで金沢へと向かう事になります

しかし、溶姫付の家臣&侍女のうち徳川家に属している者は
「全員入国ならず」(←このご時世なのでね)
として江戸へと返されてしまいます。

そんなドタバタもありながらも、3月24日に金沢城金谷御殿(かなやごてん=石川県金沢市尾山町・現在の尾山神社庭園)に到着した溶姫様。。。

しかし、それからわずか1ヶ月後の 慶応四年(1868年)5月1日亡くなってしまうのは、何とも悲しい事です。

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明治初期の赤門 古写真

一方、北へと流れた戊辰戦争は、会津(あいづ=福島県会津若松市)陥落(9月22日参照>>)からの、函館(はこだて=北海道)戦争終結(5月18日参照>>)で終止符が打たれ、

明治二年(1869年)の藩籍奉還(はんせきほうかん)(6月17日参照>>)からの明治四年(1871年)の廃藩置県(はいはんちけん)(7月14日参照>>)で新時代も動き始め、

そこから統合や改組を経た明治十年(1877年)に官立の東京大学が創設され、溶姫の御守殿門は東大の赤門となりました。

ちなみに明治三十年代(1897年~)に医科大学建設のために15mほど移動して、現在の位置になったそうですが、

令和二年(2020年)に耐震の基礎診断を行ったところ耐震性能が低いことがわかったため、翌年からは閉鎖されていて現在は門をくぐる事はできないようです。

その後は、毎年の診断を受けつつも、国の重要文化財として、赤門は今日も立派に建っていて、東京大学の象徴としてテレビ等で紹介される事も多いですね~佳き佳き(^v^)
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コメント

記事の最後でも触れている耐震強度の問題に関して。最近ニュースで触れていたのですが、東大の予算不足の事情で赤門の補強修繕ができないとのことです。
東大は意外と内部施設の修繕とか備品の更新が予算上の事情で滞っているようです。

投稿: えびすこ | 2025年12月16日 (火) 10時02分

えびすこさん、こんにちは~

>予算上の事情で滞っているようです。

みたいですね~
伝統的な建物は維持管理が難しいです

投稿: 茶々 | 2025年12月16日 (火) 11時31分

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